5月
これからの教育
今回は「これからの教育」と題し、大上段に(?)構えた話をしてみます。

子どもたちに時々する話に「民主主義と義務教育はセットだよ」というのがあります。
それを簡単に説明しておきます。
かつて小数の人が社会全体を支配していた時代には、支配する者にとっては一般の人は無知であったほうが都合が良く、教育を受けるのは一部の人たちだけでした。しかし民主主義社会になり、自分たちの未来を自分たちで決められるようになると、人々は社会のしくみや成り立ちなど様々なことを知り、自ら判断していくことが必要になりました。そして民主主義の社会を維持していくためには、次世代の子どもたちがその担い手となるように教育をすることも必要となりました。
こうして大人たちは子どもたちに「教育を受けさせる義務」を負い、子どもたちは民主主義社会のもとで自由に生きていくために「教育を受ける権利」を獲得したのです。 これが「民主主義と義務教育がセット」だということです。
こんな話から始めたのは、教育の対象と内容はその時の社会の在り方と深い関わりがあることを確認しておきたかったからです。
「これからの教育」を考えるためには「これからの社会」を想像してみることが必要なのです。

でもその前にもう少しだけ回り道をして、これまでの教育の状況をみておきます。
日本の教育を振り返ってみると、少し「役に立つ」ということに傾斜していたのではと思います。教える側は国や企業に対し役に立つ人材の育成を目指し、教わる側も自らの生活を少しでも豊かにしていくために知識や技能、学歴を身につけることを目標としていたのではないでしょうか。
明治以来、西欧に追いつくことを目標としてきた日本の置かれた立場を考えれば、これはある意味やむを得なかったことかもしれません。ただ、役に立つ人材育成のために子どもたちをふるいにかけ、効率を重視し集団的に教えるシステムを採用したことから来る弊害があったことも事実です。(この弊害についての話もしたいのですが、本題から外れるのでまたの機会にしたいと思います。)

さて、本題の「これからの教育」の話に移ります。
まず今の社会が直面している問題について考えてみます。

21世紀になり17年目になりますが、今の社会の大きな問題に「格差問題」があると思っています。20世紀の自動車産業に象徴されるような産業では多くの人が工場で働き、生まれた富も多くの人に賃金という形で分配されました。日本でも高度成長期のように皆が豊かになっていった時代がありました。
しかし次第にITに象徴される知識集約型の産業に移行し、従来の産業の現場にもロボットやAIが導入されるようになると、一部の人たちが多くの富を得る一方で、仕事を失ったり、低賃金での労働を余儀なくされる人たちが生み出されてきました。富の分配を市場での経済活動に任せると格差がどんどん拡大してしまうようになってきたのです。そして深刻なのはこれが経済だけの問題にとどまらないことです。
人間はどうしても「自らの生きる意味」を考えてしまう存在であり、他者に自分を認めてもらいたいという「承認欲求」を根底に持っています。労働を通して生活が豊かになっていく実感があるうちは良いのですが、これが無くなると自らの存在価値に疑問を抱いたり、社会から阻害されているという意識を持ってしまいがちです。結果として社会不安が増大し、社会そのものの不安定化につながります。
経済人類学者のカール・ポランニーは、人類の社会は富を分配するシステムを必要とし、長い間それは社会関係の中に埋め込まれていたが、19世紀になって市場経済がそのシステムに取って代わった。しかし、それは20世紀には既に問題に直面しうまく機能しなくなった、と指摘しています。私たちが直面している格差問題は、この富の分配システムの問題であり、これから先さらにAIなどが人間に取って代わるようになればより深刻化していくのではと思います。

それではいったいどんな解決方法があるのでしょうか?
今の時点で想像出来るのは例えば「ロボット税」「AI税」の導入とか「ベイシックインカム」による富の再配分などがありますが、単に経済的な解決だけでは済まされないのではないかと思います。例えばベイシックインカムで最低限の生活が保証された時、人は何を目的に生きていくのか、そういった問題に直面するのではないでしょうか。
実際にはどんな解決方法がとられるかはわかりませんが、いずれにせよこれまでとは違った富の分配方法になり、それに伴って人々の価値観、行動原理も変更を余儀なくされるのではないか、そんな気がしています。

それではそんな状況のなかでの教育は何を目指したら良いのか?
一つ考えられるのはプログラミングなどITに精通した人材を育てる方向、露骨に言えば「勝ち組」を育てる教育です。正直に言うと自分は数学が専門でプログラミング等にも興味があるので、こうした教育をしてみたい気持ちもありますし、そうした能力や技術を持った人が増えること自体は良いことだと思います。しかし、実際にはすべての子どもたちがこうした力を身につけることは難しいのではないか、そして、そうである以上これを教育一般の目標とするわけにはいかないと思います。

それではどんな教育を目指したらよいのか?
実はまだはっきりとした形はわからないのですが、なんとなく「生きる意味を問う教育」というイメージを持っています。
先ほど述べたように人間はどうも「自らの生きる意味」を問うたり、「自分自身の存在価値の承認」を求めてしまう存在ですが、現状の社会ではこうしたことへの解答を得ることは難しくなってきています。昔であれば宗教が解答を与えてくれたのかもしれません。しかし今では宗教にそこまでの力はありません。だれもが信じられ、生きる意味を与えてくれる「宗教」のような「大きな物語」は既に存在しえないし、むしろ今の時代に「大きな物語」に取り込まれてしまうことは危険なことのようにも思われます。(「物語」という言葉は現実とは異なるフィクションだという意味で使っています)
万人に生きる指針を与えるような大きな物語がないとすると、人は小さな関係の中で自らの存在価値を確認し生きる意味を見いだしていくこと、やや抽象的な表現で言うと、様々な集団の中で現実に人とかかわり、他者を受入れ、他者に受入れられ、自分自身を認めることで生きる意味を見いだしていくしかないのではないでしょうか?
そしてそのことが「これからの教育」の課題になってくるのではと思っています。

1996年の中央教育審議会で「生きる力」という考えが出され、それを構成するものとして「確かな知識」「健康な身体」「豊かな人間性」の3つがあげられました。この考え自体はとてもよいことだと思います。ただ、この3つの要素のさらに根底には「生きようとするエネルギーが湧いてくること」が必要なのではないかと思っています。
このエネルギーが湧いてくるためには、明確に意識はしてはいなくても子どもたちが何となく「生きる意味」を感じている必要があり、そのためには「自分自身の存在価値」を感じている必要があります。さらに「自分自身の存在価値」を実感するためには「自分が他者に受入れられている」と感じることが必要であり、そのためには自分もまた他者を受入れることが必要であると思います。こうしたことが「生きる力」の土台を形成するのではないでしょうか。そしてこの対極にあるのが「いじめ」であり、自殺が若者の死因の第1位をしめる今の日本で、子どもたちは自らの存在価値を求め日々苦闘しているのではないかと思います。

そう考えると、子どもたちが表面的でない関わりを持ち、その中でお互いを認めあう経験をすることがとても大切であり、そういう場を作っていくことが「これからの教育」の重要な役割となるのではないか、そんなふうに思います。
ただ「認める」「受入れる」ということは簡単なことではありません。形だけではなく「腹の底から」相手を認めるためには、たくさんの葛藤、逡巡、ぶつかりを経てようやく出来ることです。子どもたちだけでなく、親、教師が一体となって支えあう場があってはじめて出来ることなのではないでしょうか。
ここまで話してみると「これは生野学園がこれまで目指してきたことそのものではないか」という手前味噌な結論に至ってこの話は終わります。

最後にOne more thing。
書籍「生きるための学校」には子どもたち、親たちの苦闘が生々しい言葉で語られています。もし、まだ読まれていなければぜひご一読下さい。