9月
生野学園ではチャイムが鳴りません。

チャイムの無い学校が他にあるのかどうか、はっきりはわかりませんが相当に珍しいのではないでしょうか。
25年ほど前に知人に紹介され初めて生野学園を訪れたとき、チャイムがないことを聞いて「この学校はシステムが根本から違うんだな」という印象を抱いたことを懐しく思い出します。
近代の学校、特に明治以降の日本の学校では個々人の意識とは別に「学校全体に共通する時間」が流れ、生徒と教師はその時間の流れの中で集団で行動することを基本としています。
そしてその時間の流れを告げ知らせるのがチャイムの役割でしょう。

ところが生野学園にはそれがない。
時間はあくまで一人ひとりの生きる世界の中で流れて行き、意識の外から時間の流れをチャイムによって告知されることありません。
「外部的な時間」ではなく「内部的な時間」が流れているというイメージでしょうか。

それでは生野学園では個々人が全くバラバラの「内部的な時間」を過ごしているのかというと、そんなことはありません。
学校であり、特に寮で共同生活をしている以上、共通の時間というものはやはり存在しているのです。 ただ、それは予め与えられ組み込まれたものではなく、個々人からの「呼びかけ」という形で作られていきます。
例えば授業ならスタッフが「◯曜日の◯時から◯◯教室でこういう授業をします」という呼びかけを「授業案内」という形でしています。
クラブなら中心になる子が「何時から◯◯部をするので部員の人と興味のある人は来てください」と放送で呼びかけたりします。
それ以外でも、何かしたいことがあったら「これから◯◯をしたいので興味のある人は来てください」と呼びかけることもよくあります。
そしてその呼びかけを聞いた一人ひとりが自分でその時間を意識し、自ら選択して行動していくのです。
このように個々人が他者に呼びかけ、それに答える形で共通の時間が作られていきます。
あらかじめ共通の時間の流れがあるのではなく、個々の時間の流れが先にあって、それが共有されていくのが生野学園での時間のシステムだと言えるかもしれません。

ではなぜ生野学園ではこんなシステムになっているのでしょうか?

「校長雑感4月」でも少しお話させていただきましたが、生野学園は不登校を経験した子どもたちが「自分は一体何がしたいのか」「どんなふうに生きていきたいのか」ということを自らの「心の中心」に問い、それを実現していく場所です。
そのためには自分の外部で決められた「学校的な時間の流れ」からいったん離れ、自分のペースで自分自身の時間を生き、その中で自分自身としっかり向き合わなければいけなせん。
その過程ではゆっくりと休むことも必要になるかもしれません。
そしてそのなかで何らかの答えが見えてきたら、今度はそれに沿って自分自身の時間をどう使っていくのかを選び取り、それを他者と共有していく、そういったことが必要になります。

このように、あらかじめ決められた時間の流れになんとなく従うのではなく、自分自身で時間をどう使っていくのかを決めていく、そうした根源的な自由を保証するのが生野学園の時間のシステムなのではないかと思っています。

ただし、これは結構たいへんなシステムでもあります。
自由であることに戸惑い、なにをしたらいいのかわからないこともあります。
しっかり意識していないと、ついつい流されてしまうこともあります。(それもまた貴重な経験ではありますが・・)
気づいたら時間が過ぎていたということもけっこうあります。
スタッフも時間をうっかりして生徒に怒らることもあります。
いずれにしても自分の意識の状態がすぐ結果に現れてしまうのです。

ですから自分で時間をしっかり選び取っていくためには、それなりの経験が必要であり、ある程度の年齢にならないと難しいと思っています。
そのため生野学園でも中学校では(選択ではない)共通の時間割が決まっていて、チャイムは鳴りませんがチャイムの代わりにスタッフが意識して声をかけたり、スタッフが用意した活動への参加を誘っています。
そのせいか生野学園の中学校から高校へ進んだ子は初めのうち戸惑うこともあるようです。
「高校は暇、何をしていいかわからない」とか「中学のスタッフは親切だったけど、高校では突き放される」という声も時々聞きます。
しかし、これはより根源的で厳しい自由への入り口に立っているからゆえのことで、自分らしい生き方を模索するためには避けて通れない関門なのだと思っています。