2018年5月
小さな企業でありながら大学と協力してロケット開発に取り組まれてきた植松電気の植松努さんは講演のなかで「教育とは子どもたちに安全に失敗をさせることだ」と言われています。
TEDでの講演はネット上で観ることが出来るのでぜひご覧ください。)
全体にとても面白い話なのですが特にこの言葉が印象に残ったのは、自分もかねがね生野学園は「子どもたちが安心して失敗できる場所」であるべきだと思っていたからかもしれません。

実際、人間は失敗を通してたくさんのことを学びます。
もし「失敗」という言葉の持つ負のイメージが強すぎるようなら「試行錯誤」と言い換えてもいいもしれません。何れにせよ始めからうまくいくのではなく、思ったようにならないことに直面し、その中でいろいろ悩み、あれこれ試してみることで様々な事がわかってきたり、出来るようになってくるという過程が学びには欠かせないと思います。

ところが今の教育は(塾も含め)子どもたちに失敗をさせないように管理したり、すぐに出来るように「答えの出し方」や「マニュアル」をはじめから教えてしまう事が多いのです。
これでは学んだことが本当に「身に付く」ことはないのではと危惧します。
以前「分数の出来ない大学生」という本が話題になったことがあります。
題名から誤解されることもあったようですが、この本が問題にしていたのは「分数が出来ない子でも大学生になっている」という事ではありません。そうではなくて「分数の計算が出来ない大学生も実は小学生の時は普通に計算できていたが、今は忘れてしまっていること」それは「小学生の時にしっかりと分数の意味を理解せず表面的な計算の仕方だけを覚えていた」からであり、そうした事態を引き起こしている今の算数教育のあり方を問題にしていたのです。
つまり「分数の出来ない大学生」たちにとっての「分数」は試行錯誤の末にしっかりと身についた知識ではなかったのです。

ではなぜ人間の学びにとって失敗や試行錯誤が必要なのでしょうか?
それを説明するために、少し回り道になりますが「物事が分かるとはどういうことか」から考えてみます。
物事が「分かる」ためにはそれに対するイメージが湧いたり感覚が働くことが必要です。なぜなら、もし何のイメージも湧かず感覚も働かないのであれば、その物事を表す言葉は、その人にとっては無意味な記号にすぎず、それを「分かる」はずがないからです。
つまり物事が「分かる」のは今、体験し生きている「自分の世界」の中に、まだ漠然としてはいても、その物事へのイメージや感覚が存在していることが必要なのです。そして、この「まだ漠然としたイメージや感覚」が徐々に豊かなものになり、ある段階ではっきりと分節され、明確な概念に変わっていくのが「分かる」ということなのではないでしょうか。
ですから、もし物事へのイメージや感覚がまだ「自分の世界」の中に存在していないのであれば、物事といろいろと関わることで、それを育て「自分の世界」を広げていくことが必要です。
例えば数学を学習していると、説明を読んだだけでは何を言っているのかわからないことが多くあります。それは自分の中に未だイメージや感覚が育っていないからです。そんな時は図を描いてみたり、具体的な例を作ってみたり、いろいろと数値を変えてみたりなど、分からないなりにそれと関わっていくと、なんとなく自分の中にイメージや感覚が育っていき、ある段階になると「あっ、そういうことか!」と分かり「腑に落ちる」瞬間がやってくるということがあります。これが「分かる」ということなのです。
そしてこのイメージや感覚は「自分の外部にある未知の物事」に対し手探りで接することで育っていくわけですから、当然「思い違い」などの「失敗」は避けられません。
むしろ「失敗」を繰り返し「試行錯誤」する中でイメージや感覚が育っていき「分かる」ための土壌が形成され、結果として自分の生きる世界が広がっていくのです。
こうして「試行錯誤」の末に理解した物事は自分の生きている世界の中にしっかりと根付いたものになります。
これが「学びにとって試行錯誤が必要である」理由だと思っています。
逆に「試行錯誤」を経ずに「丸暗記」した知識や、マニュアル通りこなした体験は本当の意味では身についておらず、「分数の出来ない大学生」のように時が経てば忘れてしまうことが多いのです。
このように「人間の学び」は「外部にある未知の対象と関わる中で自分の生きる世界が広がること」、つまり自分自身の変化を伴う「主体的な活動」であり、外部から一方的に「教えられるもの」ではありません。また「物事が分かり自分の世界が広がること」は純粋に楽しいことであり、これが学びの動機になることも重要なことです。

ではこうした意味での学びにおいて教師の役割はどうなるのでしょうか。
もし子どもたちが自分で試行錯誤して分かっていくのなら教師は要らないのではという疑問が湧くかもしれません。でも、やはり教師の役割は重要だと思っています。
子どもたちの「生きる世界」は沢山の体験をする中で少しづつ広がり、それに連れてだんだんと抽象的なことも分かるようになります。ですから、ある時点で理解できることには当然個人差があります。そのため、子どもたち一人ひとりの状況を把握して、その子に適した題材を提供していくことは教師の重要な役割になります。
また子どもたちが試行錯誤している時に「思い込み」に嵌って迷路に迷い込んでしまうこともあります。ある程度は仕方ないことですが、あまりに長くなるようであればヒントを与えて正しいイメージを形成しやすいように手助けすることも教師の役割です。
これは未知の土地を案内してくれるガイドの役割に近いかもしれません。身近に経験豊富で安全を保ってくれるガイドがいれば安心して「冒険」が出来るように、学習も熟練した教師がいればで安心して「失敗」をしながら進めていけると思います。
ただ、現状では多くの日本の学校で、学習は一律に一斉授業で進められています。この状況の下では子どもたちにゆっくりと試行錯誤をしてもらう余裕が無いため、仕方なく「答えの出し方」を覚えさせて、とりあえず出来るようにさせてしまうことも多いようです。そして残念ながら「答さえ出せれば良い」と思ってしまっている子どもたちも少なくありません。
これが「分数の出来ない大学生」を生んだ原因ではないでしょうか。
こうした日本の教育制度は日本が近代化、産業化されていく中で作られてきたものですが、その歴史的役割はほぼ終わっていて、今は「一斉に多くのことを教える教育」から「それぞれの課題を深く理解する教育」への転換が必要になっています。
「ゆとり教育」が散々批判されたように「教えることを減らして本当に大丈夫なのか」という疑問は当然あるでしょう。確かに「社会の成り立ち」とか「社会のルール」といった基本的で重要なことはしっかり教える必要がありますが、たくさんのことを覚えてもそれが表面的な知識にとどまるのなら使いこなすことが出来ず、あまり意味はないと思います。それに対し数は少なくても物事を深く理解していく中で得た経験や能力は、他の物事を理解していく時にも生かされます。未知の物事と接する際の「勘」のようなものが育っていく気がするのです。
そして情報のあふれる今の時代では「覚える」ことよりも情報を「理解し使いこなす」力をつけることの必要性が増していると思います。
とは言え日本の教育改革は一筋縄には行かないので今後も紆余曲折が予想されますが・・・。

最後に生野学園での「失敗」についてお話しておきます。
これまで「学習」における「分かる」ということを中心に話をしてきましたが、生野学園では「学び」ということを、いわゆる「教科学習」よりも広くとらえています。いろいろな技能を身に付けること、人との関係を学ぶこと、そういったことも含めたものが広い意味での「学び」であり、それらもまた実際に体験し「失敗」をするなかで少しづつ身に付いていくものだと考えています。 ですから生野学園は子どもたちそれぞれにとって意味のある学習、体験、活動ができ、その中で「安心して失敗ができる場所」でありたいと思っています。
ただ「安心して失敗できる」というのは言葉としては簡単ですが、実際に失敗すればショックを受け落ち込んだり、やる気を失ってしまうこともあります。技能や運動の場面では怪我をすることもあります。
こうした失敗を受け入れることは子どもたちにとっても、それを見守る者にとっても相当に大変なことで、ついつい「失敗しないように」萎縮してしまったり、「失敗させないように」コントロールしたり、制限を設けてしまいがちです。
でも、すでに述べたように、これでは「自分の世界が広がる」ような学びはできません。
ですから少しでも「安心感」を育てていくことが必要になるのです。 そのためには「失敗しても見放されない」「失敗したときに気持ちを聞いてくれる」「どうすればいいかを一緒に考えてくれる」、そういった人の存在が大きいと思います。
先ほどの「ガイド」のたとえ話で言えば「ガイドとの信頼関係」をつくっていくことが重要なのです。
また見守る側からすると「どこまでなら安全を保って失敗させられるか」をいつも意識して、そのつど判断をしていかなければなりません。これは子どもの様子や周りの状況によって基準が変わってくるので一律に決められない難しい判断で、熟練を要します。
これ自体が経験の中で少しづつ身に付いていくことなのかもしれません。
生野学園のスタッフとしてさらに経験を深めていきたいと思っています。