生野学園に入学して
女子 母 (生野高星奨学金を給付された保護者の方より)
 子どもは中学に上がった頃より不登校になりました。不登校になり思い返してみると、小学校の五年、六年の頃は「お腹が痛い」「熱がある」など、なにかと理由を付けては三日、四日と休む事が増えていました。その頃の私は、何の疑いも無くその度に仕事を休み子どもを連れて病院に走っていました。後になって、あれは学校に行きたくないので仮病を使っていた。熱を上げる為に体温計を擦っていたと聞き「知能犯やねぇ」と言って二人で笑った事を思い出します。こんな話も子どもと笑って話せるのは生野学園に入学でき、休む事もありましたが先生やスタッフの皆様に支え導いていただき、学校に通えるようになったからだと感謝しております。
 学園に入学したのは、中学二年の夏頃でした。体験入学の時は嫌がる感じはありませんでしたし、合格の知らせを頂いた時には大喜びしていたのですが、寮生活が始まると、初日から、毎日毎日「帰りたい。迎えに来て」と泣きながら死にそうな雰囲気で電話やメールがきて、私は右往左往し、担当して下さっていたスタッフに電話で子どもの様子を教えていただいたり、迎えに行った方が良いのかご相談しましたが、「まだ大丈夫です。限界が来たら迎えに来るように連絡します。子どもの顔を見ていたら分かります。」と仰って下さいました。その言葉を聞いて、私は救われた気がしました。子どもが不登校になって一年半の間、元通っていた中学の先生やカウンセリングの先生、市役所や市役所から紹介された関連の相談機関や教育委員会など、考えられる色々な所に相談しました。皆様、大変親切に話を聞いて下さり、慰めて下さいましたので、私の心の慰めにはなりましたが、結局助けになるようなお話は聞けませんでした。ですので私一人でなんとかしなければいけないと、何も分からないまま、不安な気持ちで、出口の見えない真っ暗な長い長いトンネルの中をさ迷っている様な気持ちでしたのでスタッフの力強い言葉を聞いて、スタッフが助けて下さる。私一人で悩まなくていいんだと、涙があふれる思いでした。
 とにかく、寮生活に慣れて欲しいという思いで、先生からの“お迎え”のご連絡を頂くまでは、子どもからの死にそうなメールや電話には、慰めたり、励ましたり、冗談を言ったり、帰りたい気持ちをそらす為に朝方までメールで話をしました。当初は、やっと一週間をやり過ごすといった感じでした。その間、子どもは寮のベッドで過ごしほとんど外には出ず、食堂にも行かないので、食事は家から持たせた菓子パンやお菓子を食べていましたが、週の半ばになると先生が心配して下さり食事をお部屋に運んで下さっていました。引き籠もっている場所が家から寮のベッドに変わったといったスタートでしたが、それでも一週目より二週目、二週目より三週目と、少しずつ心が楽になって行くのを子どもが実感できた事で、嫌でも、途中で帰らなくて良かったと思ってくれた事は、一歩前進でした。それからは、川遊びや、お芋を植えたり、自分の興味のある事には、少しずつ参加するようになり、寮の皆さんにも少しずつ慣れ、学園に入りたいと思った理由の一つであったクラブにも所属させていただき、皆さんと関わる事で、それまで、お友だちに仲間はずれにされたり、陰口を言われたりした事で自信を無くし、他人が怖くなって対人恐怖症になっていた心が少しずつ回復していった様に思います。
 それまで、一人で電車に乗る事など考えられませんでしたので、毎週、車で送り迎えをしていましたが、中学三年の終わり頃より、私の父が介護が必要になり、仕事と介護で疲れている私を気遣い、少しずつ電車で通ってくれるようになりました。これもまた、子どもにとって、私にとって大きな前進です。
 高校に上がって最初は、新しく入って来られた方が多く、他人との距離をうまくコントロールできず、心が疲れて休む日が増えました。毎年、学年が変わる度に、初めは休みが増えました。でも、高一の時は、特に苦しんでいた様です。前進もしましたが、この様に壁にもぶち当たり、三歩進んで二歩下がるといった様な歩みだったと思いますが、それでも、温かく優しい目で見守り続け、導いて下さったスタッフの皆様のお陰で、着実に一歩一歩進んで来られたと思います。
 高二の頃より、行事の実行委員をさせていただいた事で、自分に自信が持てるようになり、男女共に、又、学年に関係なくお友だちが増え、卒業したくないと思う程、楽しく充実した学園生活となりました。
 四月より大学生になります。新しい環境の中、苦しむ事も多いかも知れませんが、森下先生の著書の中の「子どもと共に生きるのではなく、子どもと共に死ぬ」子どもと共に死ねるのは親だけという言葉を胸に、サポートしていきたいと思います。有難うございました。