2019年7月
子どもたちに接するときに、「自分の好きなようにしたらいいよ」と声をかけることがあります。
これは基本的には正しいのですが、意図した通りの結果にはならないこともあるのです。
それは「自分の好きな・・・」というときの「自分」というのが決して単純な一枚岩のようなものではなく、もっと複雑な存在であるということに起因しています。
今回はそのお話をしてみようと思います。

先日の参議院選挙に立候補されていた東大教授の安富歩さんはある記事の中でご自身の親との関係について次のような話をされています。

「口では『お前の好きにすればいい』と言いつつ、内面では『良い学校に行って、出世しろ!』という無言の強烈なアピール。家族はお父さんの役、お母さんの役、子供の役、とそれぞれが立場を演じているだけ。心の交流はなかった」
「あのね、『勉強しろ』って言葉で命令するのはまだ二流だよ。本当に支配的な親って言うのは、勉強しなさいって言わなくても子供が気配を察して自分で勉強をはじめるような無言のプレッシャーを与えてくるの。最初から、親の価値観の枠組みから外れないようにガチガチに仕込んで、そこから外れることすら想像させないんだよ。」

こうした環境で育った子どもは親の価値観を自分の中に『内面化』してしまうことがあります。
外から与えられた価値観でありながら成長の過程で自分自身の一部としてそれを取り入れてしまうのです。
この場合「自分の好きにしていい」と言われれば、この内面化された価値観に従って、自分の意志で「勉強する」ことになります。あくまで自分でするのですから、それは決して強制されたたようには見えません。でもほんとうの意味で「好きにしている」かというと、それは違うのです。
問題は「親の価値観を内面化した自分」はあくまで自分の一部にしかすぎず、「別の自分」も存在する、ということにあります。
その自分が「もっと別のこととがしたい」「もっと自由に生きたい」と思っていたとすると、内面化された価値観はそれを抑圧しようとし、そこに葛藤が生まれてきます。
自分の中に相反する2つの自分がいるのですから事態は深刻です。対立が軽ければ上手くバランスを取って両者を統合していくことも可能かもしれませんが、うまく行かない場合は不安定になったり、身体症状がでたり、無気力に陥ったりと様々なことが起きてきます。

「それなら親の価値観を内面化した自分を捨てて本来の自分を生きればいいじゃないか」と思われるかもしれません。でも、それはそんなに簡単なことではないのです。なぜなら「親の価値観を内面化した自分」もやはり自分なのであって、物のように簡単に捨てられるわけではなく、自分自身の否定というとても苦しい行為と、それまで生きてきた自分とは異なる自分を作っていく長く苦しい過程が必要になるからです。

前述の安富さんは研究者としての超エリートコースを進み東大教授にまでなられたのですが、「心の重圧は取れず、たびたびわき起こる自殺衝動や、持病の頭痛に悩み続けた」そうです。両親と決別し、離婚もされるなど様々な模索の末に自分らしい生き方に行き着いたのはなんと50代になってからと語られています。 安富さんは極端な例かもしれませんが、不登校を経験した子どもたちの中には同じような葛藤に悩んでいる子が多いのは確かだと思います。

ここまで「親の価値観を内面化した」ケースの話をしてきましたが、「自分の好きにしたらいいよ」という言葉が意図した結果にはならない例は他にもあります。

例えば集団から疎外されることを恐れて、集団に合わせる行動パターンをすっかり身につけてしまっている子どもいます。
このような子どもに「自分の好きにしていいよ」と言うと、その場の空気を読んでその場にあっていると思われることをするでしょう。
これもまた「本当に自分の好きにしているか」というと疑問が残るのです。

この場合すこし単純化していうと2つのケースが考えられます。
ひとつ目は「本当は自分はこうしたい」という思いはあるけれど、周りに合わせてそれを押し殺しているケースです。この場合は安心できる環境さえ与えられれば比較的簡単に自分のやりたいことができるようになると思います。

ふたつ目のケースは「自分はこうしたい」という思いが存在しない場合で、こちらのほうが深刻です。その場に合わせた流動的な自分ばかりがいて、中心となる確固とした自分という存在がまだ育っていないのです。 それでも一見すると集団の中で問題なくやっているようなのでわかりにくいのですが、こうした子は思春期を迎える頃から本人も理由がわからないままでしんどさを抱えていくことがあります。
この場合、自分のしたいことができるようになるためには、中心となる自分をゆっくりと育てていかなければならないので、根気のいる過程が必要になると思います。

このように「自分の好きにしていいよ」という言葉をかけたとしても、子どもの状況によっては意図とはまったく異なる結果になるので注意が必要です。
重要なのは子どもたちが親や周囲に気を使わなければならない「中途半端な自由」ではなく、本当に安心して「何をしてもいい」、いやむしろ「何もしなくてもいい」と思えるような「本気の自由」ではないでしょうか。