2019年10月
先月の「雑感」では地球温暖化についてお話し、その中で経済学者の宇沢弘文さんが提唱された「社会的共通資本」という考えを紹介させてもらいました。
宇沢さんの定義を短くまとめると「社会的共通資本は一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会装置を意味し、自然環境、社会的インフラストラクチャー、制度資本の3つの大きな範疇に分けられる。自然環境は大気、水、森林、河川、海洋、土壌など、社会的インフラストラクチャーは道路、交通機関、上下水道、電力、ガスなど、制度資本は教育、医療、金融、司法、行政などである」ということになります。
この中で宇沢さんは制度資本の最初に教育を上げており、教育の役割を特に重視されていました。
そこで今回は「社会的共通資本としての教育」について考えてみようと思います。

どんな社会でもその社会を引き継いでいく後継者を育てなければならないので、その意味での教育はいつの時代でも必要とされてきたと思います。ただ、まだ社会があまり大きくなかった頃は、例えば親が子どもに狩猟や農作の技術を伝授するというような近親者による直接的な教育が主でしたし、社会を構成するすべての人が高度な知識を必要としたわけではなかったので「制度としての教育」の必要性は限られていました。 ところが発達した近代社会では、社会そのものの規模が拡大し、習得しなければならない知識や技能も膨大になり、特に民主主義社会では構成員すべてがある程度以上の知識や教養を持たなければならないので「制度としての教育」が必要とされるようになってきたのです。
以下こうした意味での教育について考察してみようと思います。

私たちはいま民主主義の社会に生きています。
民主主義は簡単に言えば「自分たちのことは自分たちで決める」ということです。
民主主義そのものは古代ギリシアの頃からありましたが、そこでは成人男子のみが権利を有し女性や奴隷には権利がありませんでした。これに対し近代の民主主義は「すべての構成員が平等に権利を有している」ことが特徴です。実際、今の日本では18歳以上の人は(一票の格差の問題はあるにせよ)すべて平等に選挙権を持っています。

民主主義の世の中に生まれると当たり前のように感じてしまいがちですが、こうした民主主義が生まれたのはそんなに昔のことではありません。ヨーロッパでは市民革命を経てしだいに自由、平等という考えが浸透していき、少しずつ民主主義が確立して行ったのです。日本で女性が選挙権を得たのは第二次世界大戦後になってようやくです。そして世界を見渡せばまだまだ民主主義に至っていない社会も多く存在します。
このように人類が民主主義社会にたどり着くまでには膨大な時間を要しました。それまでは生まれた家系によって身分が決定され、他者に所有されたり支配されて一生を送るというようなことが当たり前におこなわれていました。そんな中、たくさんの思想家たちが社会のあり方について思索を繰り広げ、新たな制度を目指す様々な社会運動が試みられ、自由を求めるたくさんの人たちが命がけのたたかいをする中で、たくさんの流血の末にやっと手にしたのが近代の民主主義なのです。

こうした苦労の末に獲得した民主主義ですが、その基盤は意外と脆いものです。
人類はそのことを20世紀にファシズムという形で経験しました。ドイツのファシズムはヒットラーという独裁者を生み出しましたが、ヒットラーははじめから独裁者であったわけではありません。ヒットラーの率いるナチス党は民主的な選挙によって議席の過半数を獲得し、その上で独裁体制を築いていったのです。それは当時のドイツ国民の選択であり、それが自ら民主主義を放棄することになったのです。自ら選んだのだから仕方がないという意見もあるかと思いますが、あまりにも悲惨な結果を見ると、やはりそれは誤った選択だったと言わざるを得ません。

このように「自分たちのことは自分たちで決める」民主主義では常に誤った選択をする危険性がつきまといます。多少の過ちは当然あるし、それは修正していけばよいのですが、ファシズムのような民主主義の基盤そのものを壊してしまう過ちはさけるべきです。こうした取り返しのつかない過ちを避けるためには社会の構成員がある程度以上の見識、例えば「民主主義がどうやって成立したのか」「どんな考えから民主主義が必要とされたのか」「民主主義を成り立たせるにはどんな条件が必要なのか」「民主主義のおかげで自分たちがどんな恩恵を受けているのか」そして「民主主義を放棄するとどういう結果になるのか」そういったことを理解していくことが必要であります。そして、それを組織的、系統的に教えていくのが教育の一つの重要な役割だと思います。
これが民主主義社会にとって「制度としての教育」が必要な理由です。
そしてこの意味での教育を「公教育」と言っていますが、この場合の「公」とは「公立」という意味ではなく、社会が安定して持続するためにすべての子どもたちが等しく受けるべき教育という意味での「公」であり、私立の学校もその一翼を担うものです。

この「公教育」こそが「社会的共通資本としての教育」なのではないかと思っています。ただ残念ながら現状の日本の学校教育が十全にこの役割を果たしているとは思えません。
その点ではヨーロッパの先進的な教育に学ぶべきことが多々あるでしょう。具体的にどんなことを学ぶべきかについては機会を改めてお話しようと思います。
(また教育の役割はこれだけではありませんが、それもまたの機会に・・)

宇沢さんは社会的共通資本は通常の資本と違い市場に委ねるべきではなく、高度の専門性や規範を有した専門家の集団によって運営されるべきであると主張されています。その主張に従えば教育も市場に任せてはならないことになりますが、これに反対する「新自由主義」の立場に立つ人たちもいます。
新自由主義の立場からすると教育もサービスの一種であり市場化されるべきものだとされます。市場では生産者と消費者が合理的に行動すれば価格の変動を通して需要と供給が一致するので、教育も市場化され自由に選択できるようになれば、価格競争を経て人々が望んだ教育が供給されるようになるという主張です。これは確かに理屈としては一貫した主張ですが、仮にこうした状態が実現した場合、懸念されることが2つあります。 一つは人々がどんな教育を望むのかということです。教育を選択するひとたちが本当の意味で合理的なのであれば、自分たちの経済活動の基盤になっている民主主義社会の重要性を理解し、それを維持するために必要な前述の公教育のような教育を求めるかもしれません。でもそうではない可能性も高いと思います。例えば多くの人が受験を突破するための技術だけを欲した場合は、前述の公教育は淘汰されてほとんどの学校が予備校化するかもしれません。これは民主主義社会にとって危機的な事態です。
もう一つの懸念されることは教育が市場化された場合、経済格差によって受けうことのできるサービスに差が生じることです。これはすべての子どもが等しく受けるべき教育である「公教育」の崩壊を意味します。これもまた民主主義社会にとっては危機的な事態です。
こうしたことを考えると、教育を完全に市場化することには無理があると思います。効率化をもとめ部分的に市場化するとしても「公教育」の果たす役割を十分に配慮する必要があるでしょう。

また全国学力テストの点を基準に学校間、教師間で競争させるような主張もありますが、これは自由主義の競争的な部分だけを表面的に真似たもので、本来の自由主義の思想とはかけ離れた管理主義に過ぎないと思います。行政自らが「公教育」の役割を放棄するものではないでしょうか。