2021年1月
前回の雑感で「新型コロナウイルスの捉え方が人によって大きく異る」ということに言及しました。
実は「同じ事態であっても、それに対する人々の認識に大きな違いがあること」は、新型コロナウイルスに限らず他の場面、特にSNSでの様々な事象に対する発言、例えば最近であればアメリカの大統領選挙をめぐる発言などにふれる中で感じていました。
このことをより正確に言うと「人によって捉え方がすべて異なる」というのではなく、いくつかの捉え方のパターンがあって、同じパターンに属する人の間では当たり前のようにその認識が共有されているが、他のパターンに属する人は全く別の認識を共有しているのです。
結果として、事態の捉え方によりいくつかのグループができて、グループ内ではどんどん認識の共有が進むが、グループ間ではしばしば批判、非難の応酬が繰り返されているように思われます。
もちろんこうした認識の違いによるグループ化や対立は昔からあったことだとは思います。ただインターネットの発達で一般の人が他者に向けて自由に発言するようなったことで可視化され、先鋭化されてきた面も大きいのではないでしょうか。

捉え方に差があるグループが生まれることはある意味当たり前のことですが、問題はこのグループ間ではなかなか対話が成り立たないことです。
SNSでされる発言を読むと、批判、非難はなされても、それによって認識に変化がもたらされるような「対話」はあまり見受けられません。
どこか不毛な議論が繰り返されているように思われるのです。
そして、それはたぶんグループによって「寄って立つ前提そのものが異なっている」からではないかと感じています。

以下、そのことを唐突ですが「数学のたとえ話」を使って説明してみようと思います。少し回り道になりますが、まずはしばし数学の話にお付き合いください。

数学では「証明なしで成り立つと認める前提」を「公理」と呼びます。
そして、いくつかの公理(公理系)から論理的に導かれることだけで数学の体系が作られていくのです。
公理にはいろいろなものがありますが、有名なものの一つに中学で習う平面図形の「平行線の公理」があります。
これは「直線とその直線外の点が与えられたとき、その点を通り与えられた直線に平行な直線が1本だけ引ける」というものです。
当たり前のようにも思われますが、実はこれを公理として良いのかという議論がギリシャ時代からなされてきました。「他の公理から証明できるのではないか」という疑問が持たれていたのです。
2000年以上の歳月を経て18世紀に出された結論は、この公理の「1本だけ引ける」の代わりに「1本も引けない」としても良いし、「無数にある」としても良いというものでした。
初めて聞く人は面食らうかもしれませんが、「平行線が1本だけ引ける」のは中学で習う平らな平面の上だけであって、地球の表面のような球面上では「1本も引けない」し、双極平面と呼ばれるラッパ状の曲面上では「無数に引ける」のです。(ただし直線という概念は最短距離を結ぶ線になります。)
この事実に気づくのに2000年の歳月がかかったというのはすごい話ですが、要は何を公理にするかによって、それぞれに正しい全く別の数学の体系ができうるということです。
二人の人が同一の公理系からスタートして異なる結論を出したとすれば、どちらかが論理的に間違っていることになりますが、異なる公理系からであればまったく異なる結論が論理的に導かれるのです。
(20世紀に証明されたゲーデルの「不完全性定理」によるともう少し精密な議論が必要になりますがここでは割愛します)
以上で数学の話はおしまいです。

話を戻すと「認識を異にするグループ間ではそもそも前提とするものが異なっている」ということを数学に例えると「採用している公理がそもそも異なっている」ということになるのではと思います。
採用している公理の段階で異なっていれば、異なる結論が出るのは当たり前で、いくら議論しても論理的に相手の間違いを指摘したり、説得することは不可能です。
やみくもに相手を「論破」しようとしても不毛の議論になり「対話」には至らないのは、公理の違い、つまり「寄って立つ前提の違い」を考慮していないからではないでしょうか。

そして、そうした状況の中でも「対話」を成立させようと思えば、「なぜその公理が採用されているのか」、つまりグループの間で共有されている「前提」はなぜ生まれてきたのかという背景に踏み込むことが必要になります。
ちょうど数学の世界の「平行線の公理」が平面、球面、双極平面という対象とする世界で異なっていたように、それぞれの人の生きている世界が問題になってくるのではないでしょうか。
その人がどこで生まれ、どのように育ち、どのような教育をうけ、どんな価値観をもって生きているのか、そうした背景を知り、理解すること抜きに、なぜその「公理」を採用したのか、つまり現在の認識の前提となるものを獲得したのかはわからないし、その理解と体験のレベルでの共有なしに「対話」は成立しないと思うのです。
SNSでの空中戦のような議論が不毛に思えるのはこうした背景が見えてこないことによるのではないでしょうか。
そして実際の生活においても、近代化の大きな流れの中で、地域の共同体が弱体化し体験の共有が減ってきていることも事実で、そうしたことも「対話」が生まれにくくなている要因になっているのかもしれません。

何れにせよ一つの社会の中で「対話」が生じにくくなるのは分断が進むことにつながり、健全なことではないと思います。
どこかで「対話」が成り立つような環境を作っていく必要があるでしょう。
そして、この雑感でも何度か言及しましたが、「対話」を通して共通の認識に至るためには、お互いの経験の共有が欠かせません。そして、それが減ってきている現状を考えると、これから先は意識的に作っていく必要があるのかもしれません。

その意味では「学校」がそうした場として大きな役割を担いうるのではないでしょうか。
特に高校までの学校では知識の獲得だけではなく、経験を共有し「対話」を通して(上から押し付けられるのではなく)共通の認識に至る体験をすることが重要なると思います。

生野学園が「生活をともにしている」ことのひとつの意味もここにあると思っています。