2021年4月
安部公房の「砂の女」という小説をご存知でしょうか?
安部公房は30年近くも前に亡くなっていることもあり、最近は名前を聞くこともだいぶ少なくなりましたが、1960〜70年代の頃にはかなりの人気作家で、自分も中高生の時にいろんな作品を読み、結構影響を受けたと思います。
その安部公房の作品の中でも傑作として評価が高く、海外でも多く読まれているのが「砂の女」です。
そして作者自身が述べていることですが、この小説は「自由」をテーマとした作品なのです。

「自由」という言葉は普段からよく使っていて、今年の入学式でも新入生の皆さんに「生野学園は自由な場所です」という話をさせてもらいました。ただ改めて「自由とはなにか?」ということ問い返すと結構難しく、一度きちんと考えないといけないなと思っていました。
そんな時、ふと昔読んだ「砂の女」のことが思い出されたので、今回はこの小説を紹介しながら「自由」について考えてみたいと思います。

まず小説の「あらすじ」を紹介しますが、この小説を読んでみようと思われている方にはネタバレになるのでご注意ください。この小説は結末を知ると面白さが半減すると思います。

小説はある男が昆虫採集のために海岸沿いにある村を訪れるところから始まります。
最終のバスを逃した男は村の老人に紹介され、一人の女が住む家に泊めてもらうことになるのですが、この村の家はそれぞれが砂丘に掘られた深い穴の底にあって、縄梯子がないと出入りができません。ところが翌朝帰ろうとすると縄梯子は村人によって引き上げられており、男は穴に閉じ込められてしまうのです。
この穴には絶えず砂が侵食してきて、毎日それを掻き出さなければ家が埋もれていきます。女ひとりでその作業をするのは大変なので、村人はこの男にも作業をさせるために閉じ込めたのです。
村の存続には砂掻きが欠かせないので、砂掻きをすれば食料や水、わずかな現金も配給されるシステムになっているのですが、拒否すれば何も手に入らないので生きていくためには嫌でも従わざるをえないのです。
男がこの理不尽な状況を認めるはずもなく「自由」を求めてあらゆる手段で脱出を試みます。
一度は手作りの縄梯子で穴から抜け出すことに成功しますが、逃げる途中で砂に埋もれ身動きができなくなっているところを村人たちに助け出され再び穴に戻されてしまいます。
脱出に失敗した男は鳥を捕まえて手紙を運ばせることを思いつき、穴を掘って罠を作ります。結局,鳥の捕獲には失敗するのですが、掘った穴の底に水が溜まっていることを発見します。偶然ですが男は水を貯める装置を手に入れたのです。
配給に頼らず水が手に入れば状況が改善されると思い、男はこの水溜装置の改良に熱中するようになります。水位の記録を付けてみると溜まる水の量は気象条件に左右されるようでした。そこで詳しい気象情報を知るために男はラジオが欲しくなります。女も以前からラジオを欲しがっていたので、協力して砂掻きに精を出しお金を貯めるようになります。この頃から二人の間の距離は縮っていき、やがて女は妊娠するのですが、それが子宮外妊娠だったため女は村人たちの手で病院に運ばれていきます。
女が運ばれた後、男は縄梯子がそのままになっていることに気付きます。
図らずも脱出の手段を手に入れた男は縄梯子を登り始めますが、途中で水溜装置のことが気になり「この装置のことを村人に話したい」という気持ちが沸き起こります。そして「脱出はべつに急がなくてもいい」と考え、再び穴に戻っていくのです。
小説の最後のページには7年後にこの男が「失踪者」として死亡認定された書類が表示されており、男が元の世界に戻らなかったことが暗示されています。
「あらすじ」は以上です。

読者としては必死で脱出しようとする男につい感情移入してしまい、なんとなく「最後は脱出に成功してほしい」という気持ちで読み進めてしまうので、ラストシーンでの男の選択には「えっ!」という意外感があります。
ただ同時にこの選択には「あっそうか」という納得感もあるのです。
思ってもみなかったけど、示されてみると不自然なところはなく「なるほど」と納得させられる、そんな結論なのです。
そしてその理由をいろいろ考えさせられるのがこの小説の面白いところだと思います。

では、あれほど「脱出」を熱望していた男が、せっかくその手段を手に入れたのに、あえて村に留まることを選んだのはなぜなのでしょうか?

それには大きく2つの理由があると思います。
ひとつは脱出して戻る世界もたぶん「制約のない自由な世界」ではないということです。
この村では制約が「砂」という目に見える形をとって現れますが、この男が以前住んでいた世界でも、かたちは違うかもしれませんが、やはり様々な制約はあったはずなのです。ですから、この村から脱出したとしても「まったく制約のない自由」が得られるわけではないのです。拘束されている間はなんとしても「自由」を手に入れようと必死になりますが、いざ脱出の手段を手に入れてみると、以前の世界も格段に魅力的なわけではなく積極的に戻っていく理由がないのです。

ただ「何処でもたいして変わらない」というだけでは男が敢えて穴に戻った理由としては弱いでしょう。
もう少し積極的な理由があるはずです。それはやはり水溜装置の存在ということになります。
穴に戻るということはこの村の現実を受け入れることになりますが、この場合、男は単に現実を受け入れるのではなく、水溜装置の発見によりわずかではあっても「自分でその現実を変えていける」という手応えを掴んでいるのです。この手応えがあるからこそ「村人に話したい」と思いが湧き、穴に戻っていったわけです。 そして縄梯子の途中で「戻る」という選択をした時、男は自分が「自由」であると感じたのではないでしょうか。

 ここまでの話をもとに「自由」についていくつか整理しておきたいと思います。
まず、当たり前のことですが「まったく制約のない自由」などはあり得ません。
実際、人間は生まれてくる時間や場所を選べるわけでなく、すでに存在している世界に、しかも与えられた資質をもって生まれくるのですから、当然はじめから多くの制約が課せられています。
こうした中で生きていれば「いっさいの制約から解放されて自由になりたい」という気持ちが湧いてくるのも当然だと思います。ただそうした「自由」を空想することは可能ですが、実現することはないでしょう。

実際には人間は多くの制約を所与のものとして受け入れ、眼前の世界を生きていかなければならないのです。しかし、だからといってその世界に全く「自由」が無いわけではありません。
小説の中の「水溜装置」のように、受け入れた現実を変えたり、自らの意思で何かを実現できることもあるのです。
どんなに些細なことでも自分が主体になって自分の思いに従って所与の世界を変えたり、何かを実現できるという手応えを掴んだ時、人は「自由である」と感じることが出来るのです。特にそれまで出来ないと思っていたことが出来るとわかった時は、その感覚が強くなるのではないかと思います。

逆に、いくら権利として自由が与えられても、自分の意志で何かを実現する術が無ければ、人は「自由」を実感することは出来ません。実際に思ったことを実現していくための環境や個人の能力が伴わなければ「空想の自由」と変わりません。「自分の思うように行動してもかまわない」という「権利としての自由」はもちろん必要ではあるのですが、自由を実感するためには、それだけでは不十分なのです。

これを学校という場に引き寄せて考えると、必要以上に子どもたちの行動を制限せず、自分たちの意思で動ける環境を作ること、つまり「権利としての自由」を保証することが前提になります。
次に子どもたちが「自分のやりたいこと」を見つける必要がありますが、それが自分の実力とかけ離れた「空想的」なものでないこと、「地に足がついた」ものであることが重要になります。
その上で、それらを実現していけるように、あるいはそのための力を付けていけるようにサポートしていくことが欠かせないと思います。そうした環境の中で、子どもたちが試行錯誤しながらも、自分の思ったように動いていけた時に初めて「自由」を実感できるのではないでしょうか。

さらに自由には「他者の自由」という難しい問題もあるのですが、それはまたまたの機会にしたいと思います。