2021年7月
2年ほど前の「雑感」で「自分は小学生の頃けっこう『問題児』だった」というお話をしました。
それは確かにそのとおりだったのですが、かと言っていつも「問題児」だったわけではなく、けっこう「優等生」的に振る舞っていた時期もあったのです。ただずっと「優等生」を続けていると、だんだん疲れて嫌になり、「反抗的な気分」が頭をもたげてきて、つい「問題児」的な行動をしてしまうということをくり返していたのです。
不登校の子どもたちの中には、とことん「優等生」的な振る舞いを続け、疲れ果てて登校できなくなってしまうというケースがありますが、自分の中の「優等生」はもっといい加減なものだったので登校できなくなることはなかったのだと思います。

今回はまず、この辺の心の動きをフロイトの概念を使って、説明してみようと思います。

晩年のフロイトは心の構造を3つの層に分けています。
一番表層にあるのが「超自我」で、これは「こうあるべきだ」「こうしなければならなない」という観念的、道徳的な規範、父親的な威厳の部分で、その人の育った文化的な価値観を背景として形成されたものです。
逆に一番下層に有るのが「エス」と呼ばれる無意識の部分で、これは人間の根源的な生命エネルギーの源であると同時に、非道徳的、非合理的な欲望、衝動の塊でもあり、創造的な力の源泉であると同時に、攻撃的、破壊的な力の源泉でもあります。
ちなみに「エス」はドイツ語のEs、英語のIt(それ)に相当する単語です。得体が知れず名前のつけようがない部分なので「それ」としか言いようがないのがこの名の由来でしょうか。
そして、この2つの間の部分が「自我」、つまり狭い意味での「自分」になります。「自我」は常に「超自我」からの「こうあるべきだ」という命令と、「エス」から湧き上がってくる衝動の狭間にあって揺れ動く存在であるとフロイトは説明しています。

このフロイトの概念を使うと、超自我がしっかりと形成され、自我がその規範を踏み外さないのが「優等生」的な振る舞いといえます。ただ、その分エスの部分は抑圧されるので、度を越すと生命エネルギーが枯渇してしまったり、あるいは、抑えられてきた衝動がある時に一気に爆発してしまうことも考えられます。
逆に超自我の力が弱く、自我がエスからの衝動に身を任せてしまっているのが「幼児」的で自己中心的な行動と言えると思います。
実際の心の状態はこの両極の中間の状態にあって、小学生の頃の自分もこの2つの間を揺れ動いていたと解釈できるのではないでしょうか。
そして「自我」が力をつけ、超自我とエスからの相矛盾する要請をなんとかコントロールしてバランスを取れるようになるのが心の成長と言えるのかもしれません。

こうした説明はわかりやすい反面、複雑な心を単純化しすぎているきらいがあります。ただ、以前の「雑感」でもお話したように、人間にとって、複雑なものを複雑なままで認識するのはなかなか難しいので、一旦はこうした単純化したモデルを通して見ることにも意味があると思います。特に一つの事象をを2つの相反する側面の統合として捉える方法は有意義な視点を与えてくれます。もちろんそうした「説明」の限界は何時も意識しておく必要はありますが・・

そうしたことを踏まえた上で、後半はこのフロイトの概念を使って人間の集合である社会について少し考えてみます。

社会にあっても人間と同様にその発展のエネルギーを供給するのはエスの部分です。
それは、個々人の欲望を肯定し、生産と消費がそれとと結びついた資本主義経済の近代における爆発的発展を見れば明らかではないでしょうか。逆に前世紀の社会主義計画経済の失敗の原因の一つは経済活動が「上から与えられたノルマ」として行われ、個人の欲望と直接のつながりを失ったことにあるのではないかと推察します。
エスの部分のエネルギーは強烈なので確かに社会の発展の原動力になるのですが、これは「諸刃の剣」で、湧き上がる欲望にまかせて放置すれば社会を崩壊させてしまう危険すらあります。実際、近年の資本主義経済の爆発的発展は地球環境の破壊という深刻な事態を招き、人間社会の存続のためには早急な抑制が必要な段階に来ているのです。

考えてみれば長い人類の歴史の中で、このエスの部分をいかにコントロールするかは常に最重要の課題であり、それを解決すべく様々な宗教、思想が生み出され、様々な社会制度が築かれてきたのだと思います。言わば社会の「超自我」の形成が目指されてきたわけですが、それは試行錯誤の連続で、うまく行かずに非道徳的、非合理的なエネルギーが噴出してしまうことも数多くありました。その結果、戦争や虐殺など人と人が争い殺し合うという悲惨な結果が何度も繰り返されて来たのです。

こうした歴史の末に、今わたしたちは「民主主義」の社会を生きているわけで、それはこれまでの経験を踏まえた上で考え抜かれた、現時点では最善の社会体制ではないかと思っています。

ただ日本における「民主主義」のとらえ方には、以前から少し懸念しているところがあります。それは「民主主義」を「タテマエ」「きれいごと」、あるいは「こうあるべきだ」という約束事のようにとらえている人が結構いるということです。「民主主義」を「超自我」的にとらえてると言ってもよいかもしれません。

西欧での民主主義の確立を推し進めたのは「自由に生きたい」「そのための権利を獲得したい」という欲望であり、民主主義の確立の原動力はエスにあったと思います。そして、その欲望を実現するために旧来の権力と闘い、多くの血も流してきたのです。そして個々人の欲望を認めながらもホッブスの言う「万人の万人に対する闘争」に陥らないようにするためには「自分でだけではなく、他者の自由も認めること(自由の相互承認)」が必要であることが理解されるようになり、これが大きな転機とって民主主義が実現されていったのです。
そして獲得した民主主義を持続していくためにはどんな体制が必要なのかを綿密に考え抜いた上で作られたのが、現在の民主主義の諸制度なのです。
ですから、それはけっして「タテマエ」でも「きれいごと」でもないのです。

ところが日本では第二次世界大戦での敗戦の後に制度として「民主主義」が導入されたためか「獲得した」という意識は薄く、その結果として民主主義を「タテマエ」「きれいごと」「約束事」のようにとらえてしまう人がいるのではと想像しています。
また日本には古くから「突出することを避ける」傾向があり、個人の権利の主張をすることが忌み嫌われて来ました。そんなことも民主主義の由来であるエスの部分が軽視されてしまう原因なのかもしれません。

民主主義をこのようにとらえてしまうと、例えば「平等」といったことも「タテマエ」と考えられ、人権に配慮した意見を述べると「現実はそんなに甘くない」「そんなのはきれいごとだ」といった反論がなされ、それが賛同を得てしまったりするのです。そして賛同する心理の中には「超自我」的なものにたいするエスからの非道徳的、非合理的な反撃という面もあるのが厄介なところで、放っておけばヘイトや排外主義につながっていく危険性を感じます。

こうしたことを考えると、日本の教育現場では「民主主義」の教え方を少し見直す必要があるのではないでしょうか。
なぜ、どうしてこの制度が生まれてきたのか。それをきちんと説明し、けっして「タテマエ」的なものではなく、「自分が生きたいように生きる」ためにはどうしても必要な制度であることを理解してもらうことを目標にすべきだと思います。