全体像を知ることの難しさ
3月の雑感で高星山のお話をさせていただきました。
その後、何人かの子どもたちと久しぶりに高星山に登る機会があり、いろいろと新しい発見がありました。そのお話から始めたいと思います。
高星山は木が多くあまり展望は良くないのですが、何箇所か南側の展望が開けた場所があり木々の合間からかなり遠くの景色を見渡すことが出来ました。そしてよく見ると生野学園に来るときに通る県道の一部が遠くに見えるのです。ということは県道の方からも高星山が見えるはずです。
後日じっさいにJR寺前駅からの県道を注意しながらたどってみると、確かに高星山が見える箇所がありました。生野学園から南へ6kmほど行った場所、通称「せせらぎカーブ」と言われるあたりから高星山を望むことが出来たのです。上の写真はその場所で撮ったものです。
写真のA点は生野学園から見ると頂上のように見える場所、B点は「天狗岩」と呼ばれる岩場、C点のあたりが本当の頂上になります。こうしてみるとふだん生野学園から見上げる「高星山」は全体からするとほんの一部分であることがよくわかります。おなじ山でも見る位置によってずいぶんと違う様相を見せるものです。
実はこの写真を撮った県道は学園スタッフの通勤路で自分はもう25年も通っています。でもそこから高星山が見えることにはこれまで気づきませんでした。写真に写っている山並み自体は何度も目にしていたはずなのに、それを「高星山」と認識することはなかったのです。
これはたぶん「生野学園から見上げる高星山」のイメージと「写真の高星山」がかけ離れていたからではないかと思います。日ごろ生野学園から見上げているとついついもっと「独立した山」であるかのように想像してしまい、遠くから見れば尾根の一部分に過ぎない「高星山」を同じものとして認識しづらかったのではないかと思います。実際、意識して県道から高星山を探したときも特徴的な形の「天狗岩」をみつけた時にはじめて「ああ、これが高星山か」と確信し、認識を新たにした次第です。

こんなお話をしたのは今回は「全体像を知ることの難しさ」をお伝えしたいと思ったからです。 高星山という一つの地形であっても生野学園から見た印象は一面にすぎず、より遠くからの視点を加えることで別の見え方があることがわかりました。同じように一つの視点からだけ捉えたのでは全体像に迫ることが出来ない事柄が多くあるように思うのです。ところが人間はともすると身近な視点から得たイメージから類推して全体も同じ様になっていると考えてしまいがちなのではないでしょうか。

もう一つ例を上げます。
いきなり話がとびますが、皆さんは子どもの頃「宇宙に『果て』はあるんだろうか?」という疑問をいだいたことはないでしょうか?「宇宙に『果て』があったとしてもその先はどうなっているんだろうか?」「でも『その先』があるということは『果て』はないということなんだろうか?」自分はそんなことに悩んだ記憶があります。これに対し後になって自分なりに出した結論は次のようなものです。
自分が生きている身近な空間は縦横高さが広がっている3次元の空間(数学用語で言えば3次元ユークリッド空間)です。そのため宇宙をイメージするときもついついその3次元空間の中で考えてしまっているのではないか。たしかに子どもの頃に「その先は?」と考えたときに無邪気にイメージしていたのは単純な3次元の空間でした。でも宇宙全体が3次元の空間の中に入っているとすることに根拠はありません。たぶん実際の宇宙空間はもっと複雑でその一部分が我々に身近な3次元空間のように見えているだけなのではと思います。それなのに自分の周りの3次元の空間が無限に広がっているように思い、その中に宇宙全体が含まれるように考えてしまっていることに無理があるということです。
この説明は「答え」というよりは「単純な疑問をより複雑な問いの中に位置づけ直しただけ」なのかもしれません。しかし、全体像を捉えるためには「自分の周りの空間は一部分に過ぎない」ことを意識する必要があると思います。
ただ人間には「3次元の空間の中でイメージする」ということが身に染み付いてしまっているので、そこから抜け出るのはとてもむずかしいことではあります。

いきなり宇宙というスケールの大きな話になってわかりにくかったと思いますが、言いたかったのは「全体像を知るということはつくづく難しい」ということです。
その難しさはどこから来るのかと言うと、一つにはこれまで述べたように「限られた視点から得たイメージにとらわれてしまい、それから脱しにくい」ということがあります。でももう一つより原理的で根本的な難しさもあるのではと思っています。
それは「人間は神の視点に立つことは出来ないので、『これが全体像だ』という正解はけっして知りえない」ということです。そのためどんなにたくさんの視点から全体像に迫っても「もうこれ以上別の見方はない」ということを示すのは原理的に不可能なのです。唯一できるのは「いくつかの視点を擦り合わせ、それらを矛盾なく統合できるような新たな視点を見つける」という過程を続けていくということになります。
この過程は言葉で言えば簡単ですが、実際はとても難しいことだと思います。
自分の見方が一面的でないかを常に検証していなければならないし、視野を拡げるためには他者の意見を聞いてそれを受け入れることも必要です。その上でいくつかの視点を統合するより広い視点を獲得しなければならないのですが、「こうすればたどり着ける」という正解はないので、いろいろと考えたり議論したりの試行錯誤も必要になります。

こうした困難さ故に残念ながら我々は自分の身近なところから得た狭い視野に留まり、そこから類推して「全体もこうなっているだろう」と思い込んでしまっていることが多いように思います。
実際twitterなどのSNSでは自分の限られた経験から得た判断を一般化してしてしまっている投稿が本当に多く見られます。しかもそれぞれが言いっぱなしで議論を経て変化していくことは少ないのではないでしょうか。
もっともこうした「視野の狭さ」そのものはずっと昔からあったものだとは思います。 目立つようになったのはSNSのような個人が手軽に自分の考えを公にできる場が出来たことで可視化されたということでしょう。
昔のように世界に変化が乏しく限られた範囲だけで生きていた時代であれば「視野の狭さ」が特に問題になることはなかったと思います。でも今のような変化が激しく「関わり合う人」の数も増えた社会では狭い視野に基づいて行動することが様々な誤解や軋轢を生むことにつながってしまいます。
それを避けるためには一人ひとりが「視野を広げる」ことが必須ですが、それは一朝一夕でできることではありません。結局は長期的な展望に立った「教育の課題」ということになると思います。
実際に子どもたちと接していると「一面的な見方しか出来ていないな」と思うことがよくあります。そんなとき「別の見方もあるよ」と説明するのは簡単です。でも本当の意味で納得してもらうには本人が自分の視野が狭かったことに「気づく」必要があります。そして「気づく」というのはある意味「自分が変わる」という極めて主体的な行為なので、それなりの準備と成熟が必要になります。それには知識の面だけでない「人としての関わり」も必要になるでしょう。
要は「子どもたちが自分たちの視野の狭さに気づき、自分自身の生きる世界を広げていけるような環境を作っていくこと」それがこれからの教育の重要な課題だということです。
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