ヴィゴツキー心理学の紹介
残念ながら今月も新型コロナウイルスの話題は避けて通ることはできないようです。
日本での新規感染者数は6月8日には22名まで減少しましたが、その後は大体10日ほどで2倍のペースで増加し、7月29日には日本全体で1200人を超えてしまいました。
都市部に集中していた感染地域も地方への広がりを見せています。そして感染の中心が若い世代であることにには変わりありませんが徐々に高齢者の感染も増えており、今後の重症者の増加が危惧されるところです。
一方で新型コロナウイルスは「早期に収束するだろう」とか「危険性はそれほででもない」という言説も目にすることがあります。ただこれらを精読すると明確になっていない仮定を前提としていたり、明らかになっている事実からだけでは推論できないような飛躍が含まれていたりするように感じます。例えば予想した感染増加のピークが外れても「それは新たな波が発生したためだ」と言うのであれば、確かに説明はできますが「予想」としてはほとんど意味を持たないでしょう。「矛盾を含んだ公理系からは全てのものが証明できてしまう」という数学的事実を思わせるものがあります。

この間の推移を出来るだけ謙虚に振り返ってみれば、そこからから引き出せるのは「人と人との関わりを減らせば感染は減るし、完全に治まっていない状況で元に戻せば再び増加する」というシンプルな結論ではないでしょうか。
その意味では早急に全国規模でもう一度「人との接触を減らす」措置をして新規感染数を押さえ込むこと、そしてとにかくPCRの検査体制を充実させて今後発生した感染者の周辺を徹底して検査することで迅速に感染者を隔離していくことこそが求められているように思います。その方がずるずると感染拡大が続くよりも経済に与える打撃も少ないのではないでしょうか。

新型コロナウイルスについてのお話しは以上にさせていただいて、この後は先月の雑感で少し言及したヴィゴツキーという心理学者のお話をしてみようと思います。

ヴィゴツキーは1896年に白ロシア(現在のベラルーシ)で生まれ、1936年に結核により37歳の若さで亡くなっています。その短い生涯を惜しむ声も多いようですが、その後の旧ソ連で起きた事、つまりスターリンによる独裁と大量の粛清を思えば、もし長く生きていたとしても幸福な研究生活は送れなかった可能性も高いと思います。
ヴィゴツキーは子どもたちの発達、特に言語を獲得していく過程について深い考察をしています。ただこれらがなされた1930年当時のソ連の政治状況もあるのか国際的に知られることはあまりなかったようです。ヴィゴツキーの理論が高く評価されるようになったのは1962年にアメリカの心理学者のブルーナーが再評価したことがきっかけとなったようですが、まだ一般に知られることは多くないように思います。
実は自分自身も昨年11月の「雑感」で紹介したオープンダイアローグの提唱者であるセイックラの著書で初めて知ったのです。「オープンダイアローグに影響を与えた理論とはいったいどんなものだろう」と思い調べてみるととても興味深い理論であることがわかり、これはぜひみなさんにも紹介しなければと思った次第です。ですからまだまだ消化不足でしっかりと説明できるかはわかりませんが、前回に言及した「発達の最近接領域」についてもう少しお話ししてみようと思います。

ヴィゴツキーは子どもたちの発達の様子を把握するためには「すでに獲得した能力を調べるだけでは不十分だ」と言います。「現時点で出来ること」を調べることはもちろん必要ではあるが、子どもの発達をよりダイナミックにとらえるためには「今はまだ一人では出来ないけれど、教師や他の子どもたちの助けを借りれば出来るようになる部分」に注目する必要があると言い、これを「発達の最近接領域」と名付けました。そして実験によりたとえ今現在の発達の水準が同じ子どもたちであってもこの領域はそれぞれ異なることを示したのです。
それゆえ教師の役割は子どもたち一人ひとりの「発達の最近接領域」を把握し、適切な助力をすることで子どもたちの主体的な発達を助けることであると言います。
これはある意味あたりまえのことで、経験豊かな教師であれば自然とやっていることかもしれません。ただ改めて明確な概念として提示したことには大きな意味があるし、それを単なる思いつきで主張するのではなく、子どもの発達過程、特に言語を介した発達の過程の注意深い観察から導き出したことはヴィゴツキーの大きな功績であると思います。

以前にもすこしお話ししたように人間の認識の発達では「言葉」が決定的な役割を担っていますが、この「言葉」というものは一人ひとりの人間の内部から生まれるものではありません。じっさい純粋に自分だけのルールで言葉を使うのは乳幼児だけで、それ以降はすでに他者が話している言葉を理解して使うようになります。人間は他者が話す(書かれた)言葉を介して自己の内的世界を分節することで認識を深めていくのです。ですから他者との関わり抜きには認識の発達はありえないし、同時に認識の深化は必ず自己の変化を伴ないます。こうしたことをヴィゴツキーは「精神間機能」(他者との関わり)が「精神内機能」(個人の機能)に転化していくと表現しています。

このように認識の発達は必ず個人の内的な変化、ヴィゴツキーの言葉では「精神内機能への転化」が伴うのですが、これはいつでも起きるものではありません。とうぜん変化は段階的に進んでいくし、いろいろな条件が整わなければ次の段階には進めないでしょう。感覚的な言葉で表現すれば「機が熟している」必要があります。そして「機が熟し」あと少しで変化しうる領域こそが「発達の最近接領域」であり、そこに他者からの働きかけが加わることで実際の変化が生じるのです。
平たく言えば物事が「わかるようになる」「出来るようになる」ためには「そのための機が熟している」必要があるし、実際に「わかったり」「出来たり」するのは人から教えてもらったり、模倣してみたり、あるいは誰かが書いた文字を読むといった「他者との関わり」が必要だということです。

ではこうした考えから導かれる「学校のあるべき姿」はどのようなものでしょうか。
まず形態としては「他者との関わり」を保証する形、つまり集団が必要になるでしょう。できれば教師だけでなく子どもたち同士が教えあうことの出来る環境が望ましいと思います。その意味ではイエナプラン教育が取り入れている「異年齢」の子どもたちで形成されたクラスは参考になると思います。
次に内容に関して言えば1人ひとりの「最近接領域」はとうぜん異なるので「個別化」が必要になると思います。そのためにはそ一人ひとりの「機が熟している領域」を見抜くことの出来る経験を積んだ教師の存在、あるいは複数の教師がそれぞれの視点から内容を検討する場も必要になるでしょう。
いずれにせよ形態としてはグループ化、内容としては個別化というのが基本の方向であるべきだと思います。

ただ以前も指摘したと思いますが、日本の多くの学校ではまだまだ「教師が一律の内容を子どもたちに教え込む」というスタイルから抜け出せていません。「機が熟していない」子どもにも「とにかく出来るようにさせる」ために、例えば数学で言えば「公式を丸暗記させて意味はわからなくても答えを出せるようにする」といった無意味なことが行われているのです。

一方でこうした「教え込む」「知識を与える」「なにかをさせる」といったスタイルへの反発から「教師は教えるべきでない」という主張もなされるようになっています。
こうした主張をされている方は「子どもたちが自分自身で気づいていけるような環境やヒントをあたえることの重要性」を指摘されているのだと思いますが、「教えるべきでない」という部分ばかりが強調されると「すべてを子どもたちに任せればいい」という誤解を生む危険もあります。
実際には「子どもたちだけで出来ること」というのは限られています。「子どもたちの能力を信じ自主性に委ねる」といえば聞こえは良いですが、ただ待っているだけでは何も起こらないかもしれません。
「機を見て」子どもたちの主体的な変化につながるような目的意識的な関わりをすることが教師、大人の重要な役割なのではないでしょうか。
その意味でヴィゴツキーの「最近接領域を把握して適切な助力をするべきだ」という指摘は今も大きな意味を持っていると思います。
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