「論理国語」の新設に関して
新学習指導要領の実施時期が迫ってきました。
中学校は来年度から全面実施、高等学校は再来年の1年生から段階的な実施となります。
今回の改定では「主体的、対話的で深い学び(アクティブラーニング)」を目指すことをはじめ、様々なことが話題になっていますが、そのなかの一つに高等学校の国語で現代文が「論理国語」と「文学国語」の2つに分けられるということがあります。
たぶん「文学国語」は現代文のうちの小説、戯曲、詩歌などの文芸作品を対象としているのだろうとすぐに推察できると思います。これに対し「論理国語」というのは聞き慣れない言葉です。
実際このことが発表されると様々な疑問が投げかけられ、「論理国語」という科目の創設に対しては賛成、反対それぞれの意見が出され議論されています。
今回はこの「論理国語」について考えてみたいと思います。

まず「論理国語」はどんな文章を教材にするのでしょうか。
当初はまだ「論理国語」とはどんなものなのかが十分に周知されておらず、また「実際の社会で役に立つ」という面が強調されたこともあり「対象とする文章が今の社会で実用されている文章、例えば契約書、法令、解説書のようなものばかりになってしまうのでは」という懸念が表明されました。
そして、そうした文章は同じ社会の構成員であれば誰もが同じ解釈に至るように書かれたものであるため「それを読むことが読解力の向上につながるのか?」あるいは「それは高校の国語で扱うべき内容なのか?」といった意見も見られました。

しかし指導要領を読んでみると
「選択科目『論理国語』は,多様な文章等を多面的・多角的に理解し,創造的に思考して自分の考えを形成し,論理的に表現する能力を育成する科目として,主として「思考力・判断力・表現力等」の創造的・論理的思考の側面の力を育成する。」
と記載されています。この「多様な文章」という表現を素直に受け取れば、先にあげたような実用的な文章に限られることはないのではと思います。まだ「論理国語」の教科書は発表されていませんが、たぶん論説や批評といったこれまで現代文で扱われてきたものも残っていると思います。

次に「論理国語」の創設は他の科目にどんな影響を与えるのでしょうか?
まず指摘されたのは単位数の関係で多くの学校では「論理国語」が選択され「文学国語」は履修されないのではないかということです。特に理系の生徒ではこの傾向が強いのではということも指摘されました。
そうなるとこれまで多くの人が教科書を通してふれてきた「山月記」や「こころ」といった近代の名作を読むことなく卒業していく生徒が増えてしまう。これは文学が子どもたちに与える力を軽視しているのではという意見も出されました。
この問題を考えるためには各科目の単位数を知っておく必要があります。
そこで国語で予定されている変更を列挙しておきます。
現行指導要領新指導要領
必須科目国語総合(4単位)現代の国語(2単位)

言語文化(2単位)
選択科目国語表現(3単位)
現代文A(2単位)
現代文B(4単位)
古典A(2単位)
古典B(4単位)
国語表現(4単位)
論理国語(4単位)
文学国語(4単位)
古典探求(4単位)

これをみると「論理国語」と「文学国語」はいずれも選択科目で、1年時に必須科目を履修した後に2,3年で選択履修する科目です。
内容的にみると現行の現代文Bが「論理」と「文学」に別れ、それぞれが4単位になり、現代文Aは廃止されるものと考えられます。そのため、これまで現代文Bを履修していた場合は「論理」と「文学」の両方を履修すると単位数が4つ増加することになるのです。
制度としては両方を選択することは可能ですが、そのためには次の2つの方法を取るしかありあせん。
  1. 1 週あたりのの授業数を増やす。
  2. 他の教科の履修科目を減らす。
週の授業数を増やして生徒に負担をかけるか、他の教科にしわ寄せがいくかの判断になるので学校としては悩ましいところでしょう。
また「減単」といって単位数を減らして履修することも制度上は可能ですが、指導要領によると「生徒の能力的に少ない時間数でも十分履修できる場合は減らしても構わない」とされているものなので「両方を履修するために単位数を減らす」というのは本来の趣旨から外れると思います。
ただ「文学国語」を履修しないことへの批判が強くなれば、この制度を利用して、例えば「論理国語」4単位、「文学国語」2単位、または両方3単位といった「落とし所」が探られるのかもしれません。

もしこの件について自分の意見を問われたら「論理」と「文学」に分けられていることを所与とするならば、やはり「文学」も履修してほしいと答えます。
なぜそう思うのか、以下その理由を説明していこうと思います。

そのための準備としてまず自分が考えている文章の分類のお話をしておきます。
文章は大きく分けて次の3つに分類できるのではないかと思っています。

  1. 社会基盤を共有する人達の間では同じように解釈される文章。例 契約書、規約、説明書
  2. 「人によって感じ方、考え方は異なるような対象」に対する自分の感じ方や考え方をできるだけ論理的に筋道を立てて述べた文章。例 人文・社会科学的な論説、批評
  3. そもそも論理的には語り得ないもの(例えば人間の複雑な心理)を創作や詩的言語によって表現したもの。例 小説 詩歌 戯曲

このように分類すると1と2は「論理国語」の対象になり、3は「文学国語」の対象になるでしょう。
そして2の領域にあるような社会科学的な対象を理解するためにも3の領域の「人の心の動き」のようなものの理解はやはり欠かせないのではと思っています。
というのは社会的な問題を考えるばあいでも、その社会を根本で動かしているのは一人ひとりの人間であって、その人を突き動かしている「内的動機」のようなものまで遡らなければ真の理解とは言えないと思うからです。そしてその「内的動機」のようなものは「論理」だけでは捉えることはけっしてできず、それをわかろうと思えば文学的な記述に頼らざるを得ないとのではないかと思うのです。
抽象的な言い回しでわかりにくいと思うので、自分自身の体験を話しておきます。
もう大昔のことですが、高校3年の国語の授業で森鴎外の「舞姫」を読みました。読むだけでなく思ったことを文章にして提出しなければならなかったので結構大変だったのですが、この授業のおかげで鴎外のような明治の知識人が西欧文明とどう向き合っていたのかなんとなくわかった記憶があります。それは一面的なものにすぎないのかもしれませんが、貴重な経験であり明治という時代を理解する助けになったように思います。
文芸作品を読むことは、それによって自分が生きていなかった時代の人々の心に触れ、その時代の理解、さらにそれに連なる自分自身への理解が増すという意味でも大切だと思うのです。

「論理国語」の話というよりは「文学国語」の話になってしまいました。
「論理国語」についてはまだまだお話したいことがあるのですが、だいぶ長くなったので次回にさせていただきます。
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