戦争について考えてみる
ロシア軍がウクライナに侵攻して既に1ヶ月以上が経ちました。
武力により国家目標を達成しようとすることが公然と行われるという事態に直面し、改めて人類にとって「戦争」というものが重たい課題であることを痛感しています。そこで今回は少し荷が重いのですが「戦争」ということを考えてみようと思います。
第2次世界大戦以降、日本では自衛隊の海外派兵はありましたが多くの国民は直接に戦争を経験したことはないと思います。1958年生まれの自分も当然経験していません。ただ自分達の親の世代は直に戦争を経験しています。
実際、自分の父親は学生時代に学徒動員により南方戦線に派遣され、兵站の断たれた戦地で飢えと敵襲に苦しみながらジャングルに身を潜めなんとか生還しています。海軍にいた父の兄は戦死、北方戦線に派遣された弟は戦後もシベリアに抑留され厳寒の中の強制労働を耐えてなんとか帰還しています。
また東京に住んでいた母親は幸い静岡に疎開することができて東京大空襲の難を逃れています。
親たちがこの時代を生き延びたのは本当に幸運が重なった結果であったことを思うと、自分という存在が今あること自体が奇跡的なことなのだという気もするのです。
親たちの世代の戦争体験を生の言葉で聞いて感じたのは、世界が戦争に向かう大きな流れの中で、それに抗うこともできず非戦闘員も含めた多くの人たちが命を落としていったということ、そして本来であればこの世に生を受けるはずであった多くの命が失われてしまったという「不条理」です。
そして自分はそんな不条理な戦争がなぜ起きてしまったのかという疑問をずっと抱いてきました。
もちろん近代の戦争はなんらかの国家目標を達成するために行われるものであり、それなりに開戦の理由はあるはずなのです。でもはたしてその目標はこれだけの犠牲に見合うものだったのかという疑問、また戦況が悪化して当初の目標の達成が困難になったにもかかわらず止めることができず犠牲者を増やしてしまったのはなぜなのかという疑問が拭えないのです。
自分は一応「理系」の教育を受けてきた人間ですが、一方で「1930年代の経済」とか「ファシズムの勃興」といった問題に関心をよせ自分なりに学習してきたのはことの根底にはこうした疑問があったように思います。
ただ「戦争はなぜ起こるのか」そして「なぜ止めることが難しいのか」という疑問に対する答えを得るのは簡単なことではありません。
原因は複雑で多岐に渡り、経済の問題、国家や組織の問題、人間心理、集団心理の問題など考えなければならないことが膨大なのです。
例えば単純に「ヒットラーが・・」とか「ムッソリーニが・・」とか今回でいえば「プーチンが・・」といったように戦争指導者に原因を求めるのはあまりに一面的にすぎます。たしかに戦争指導者の資質は大きな要因の一つではあるのですが、そもそもそうした人たちが支持を得て登場し、権力を集中させていった過程や背景も考えると原因は単純ではありません。
戦争が起きる理由、そして途中で止めることが困難な理由は簡単には説明できないのです。
しかし実際には、第2次世界大戦以降も戦争はずっと続いています。
大きなところを列挙すれば、朝鮮戦争、ベトナム戦争、中東戦争、中越戦争、アフガン戦争、湾岸戦争、イラク戦争、コソボ紛争・・。そして各国での内戦を含めればほぼ戦火が収まったことはないのが現実です。
こうした状況をみると、残念ながら今の人類が築いている社会は未だ戦争という手段を手離すことはできておらず、むしろ放っておけば戦争を引き起こしてしまうシステムのようなものを内包しているのような気がするのです。
長い目で見ればそうしたシステムそのものがなくなることが望ましいとは思いますが、それは簡単なことではなく、人間と社会が根本から変化していかなければ達成はできないのではないかと思います。そうであれば今の段階で必要とされるのは「戦争は起きるもの」という認識のもとでなんとかそれを抑え込んでいく対症療法的な手段ではないでしょうか。
そのためには軍事的なバランスが崩れないようにする細心の調整や政治的な対立が軍事に発展しないようにする粘り強い交渉が不可欠になります。
第二次大戦後、世界規模の戦争を避けてこられたのは国際連合がこうした機能を一定程度果たしてしてきたからなのかもしれません。
そして今回のロシアによるウクライナ侵攻で最も懸念されるのはこれまで維持されてきたバランスそのものが崩れて戦争が拡大してしまうことではないかと思います。
もし世界が今後も戦争の危機に直面していかざるを得ないのだとすれば、我々庶民の出来ることは一時的な感情に捉われることなく、外交能力に長け粘り強い交渉ができる有能な指導者を選ぶことなのではないでしょうか。危機にあって本当に必要なのは威勢の良い言葉ではなく冷静な判断力だからです。
また教育の分野で言えば一面的にならず人間の多様性を認めるインクルーシブ教育が重要になります。インクルーシブ(多様性=すべてを含んだ)というのは決して綺麗事ではなく「受け入れがたい他者と何とかして折り合いをつけ共存していく」という高度な能力を身につけなければ実現できないことであり、その能力こそ危機を乗り切っていく力となると思うからです。
武力により国家目標を達成しようとすることが公然と行われるという事態に直面し、改めて人類にとって「戦争」というものが重たい課題であることを痛感しています。そこで今回は少し荷が重いのですが「戦争」ということを考えてみようと思います。
第2次世界大戦以降、日本では自衛隊の海外派兵はありましたが多くの国民は直接に戦争を経験したことはないと思います。1958年生まれの自分も当然経験していません。ただ自分達の親の世代は直に戦争を経験しています。
実際、自分の父親は学生時代に学徒動員により南方戦線に派遣され、兵站の断たれた戦地で飢えと敵襲に苦しみながらジャングルに身を潜めなんとか生還しています。海軍にいた父の兄は戦死、北方戦線に派遣された弟は戦後もシベリアに抑留され厳寒の中の強制労働を耐えてなんとか帰還しています。
また東京に住んでいた母親は幸い静岡に疎開することができて東京大空襲の難を逃れています。
親たちがこの時代を生き延びたのは本当に幸運が重なった結果であったことを思うと、自分という存在が今あること自体が奇跡的なことなのだという気もするのです。
親たちの世代の戦争体験を生の言葉で聞いて感じたのは、世界が戦争に向かう大きな流れの中で、それに抗うこともできず非戦闘員も含めた多くの人たちが命を落としていったということ、そして本来であればこの世に生を受けるはずであった多くの命が失われてしまったという「不条理」です。
そして自分はそんな不条理な戦争がなぜ起きてしまったのかという疑問をずっと抱いてきました。
もちろん近代の戦争はなんらかの国家目標を達成するために行われるものであり、それなりに開戦の理由はあるはずなのです。でもはたしてその目標はこれだけの犠牲に見合うものだったのかという疑問、また戦況が悪化して当初の目標の達成が困難になったにもかかわらず止めることができず犠牲者を増やしてしまったのはなぜなのかという疑問が拭えないのです。
自分は一応「理系」の教育を受けてきた人間ですが、一方で「1930年代の経済」とか「ファシズムの勃興」といった問題に関心をよせ自分なりに学習してきたのはことの根底にはこうした疑問があったように思います。
ただ「戦争はなぜ起こるのか」そして「なぜ止めることが難しいのか」という疑問に対する答えを得るのは簡単なことではありません。
原因は複雑で多岐に渡り、経済の問題、国家や組織の問題、人間心理、集団心理の問題など考えなければならないことが膨大なのです。
例えば単純に「ヒットラーが・・」とか「ムッソリーニが・・」とか今回でいえば「プーチンが・・」といったように戦争指導者に原因を求めるのはあまりに一面的にすぎます。たしかに戦争指導者の資質は大きな要因の一つではあるのですが、そもそもそうした人たちが支持を得て登場し、権力を集中させていった過程や背景も考えると原因は単純ではありません。
戦争が起きる理由、そして途中で止めることが困難な理由は簡単には説明できないのです。
しかし実際には、第2次世界大戦以降も戦争はずっと続いています。
大きなところを列挙すれば、朝鮮戦争、ベトナム戦争、中東戦争、中越戦争、アフガン戦争、湾岸戦争、イラク戦争、コソボ紛争・・。そして各国での内戦を含めればほぼ戦火が収まったことはないのが現実です。
こうした状況をみると、残念ながら今の人類が築いている社会は未だ戦争という手段を手離すことはできておらず、むしろ放っておけば戦争を引き起こしてしまうシステムのようなものを内包しているのような気がするのです。
長い目で見ればそうしたシステムそのものがなくなることが望ましいとは思いますが、それは簡単なことではなく、人間と社会が根本から変化していかなければ達成はできないのではないかと思います。そうであれば今の段階で必要とされるのは「戦争は起きるもの」という認識のもとでなんとかそれを抑え込んでいく対症療法的な手段ではないでしょうか。
そのためには軍事的なバランスが崩れないようにする細心の調整や政治的な対立が軍事に発展しないようにする粘り強い交渉が不可欠になります。
第二次大戦後、世界規模の戦争を避けてこられたのは国際連合がこうした機能を一定程度果たしてしてきたからなのかもしれません。
そして今回のロシアによるウクライナ侵攻で最も懸念されるのはこれまで維持されてきたバランスそのものが崩れて戦争が拡大してしまうことではないかと思います。
もし世界が今後も戦争の危機に直面していかざるを得ないのだとすれば、我々庶民の出来ることは一時的な感情に捉われることなく、外交能力に長け粘り強い交渉ができる有能な指導者を選ぶことなのではないでしょうか。危機にあって本当に必要なのは威勢の良い言葉ではなく冷静な判断力だからです。
また教育の分野で言えば一面的にならず人間の多様性を認めるインクルーシブ教育が重要になります。インクルーシブ(多様性=すべてを含んだ)というのは決して綺麗事ではなく「受け入れがたい他者と何とかして折り合いをつけ共存していく」という高度な能力を身につけなければ実現できないことであり、その能力こそ危機を乗り切っていく力となると思うからです。