若者の抱く「無力感」について
先月の雑感では内閣府による「若者の意識に関する調査」を取り上げ、「役に立つ」ということについて考えてみました。今月は予告通り日本財団による「18歳意識調査」を見ていきます。
取り上げるのは今年1月に行われた「国や社会に対する意識」に関する調査で、これは日本・アメリカ・イギリス・中国・韓国・インドの17歳〜19歳の若者を対象としたものです。
調査の内容は多岐にわたっているのでここではごく一部のものしか取り上げません。ですので調査の全体像を日本財団の公式サイトでご確認されることをおすすめします。
まず注目するのは最初の質問「自国の将来について」です。
解答の選択肢は「良くなる」「悪くなる」「変わらない」「どうなるかわからない」の4つで、下の図はそれぞれの割合を国別にグラフにしたものです。
これを見ると日本の「良くなる」の割合の低さ(13.9%)が目をひきます。成長率が高く勢いのある中国やインドで「良くなる」の割合が高くなるのはわかるとしても、残りのイギリス、アメリカ、韓国と比べても日本は半分以下になっているのです。
ただインド、中国を除く4カ国では「変わらない」「悪くなる」の割合(グラフの黄色と赤の部分)もそれなり高くなっています。「変わらない」の割合は韓国が1位で日本が2位、「悪くなる」の割合は日本が1位ですが、2位、3位のイギリス、アメリカと大差があるわけではありません。
ですから日本だけが「良くなる」という楽観的な見通しを持った人の割合が極端に低いということになると思います。
そして調査ではさらに「10年後の自国の競争力について」という質問を経済、科学技術、軍事・防衛、文化・芸能の各分野についてしているのですが、どの分野でも日本は「強くなる」の割合が最下位になっており、最初の質問と同じような傾向が見られるのです。

ではなぜ日本の若者は自国の将来についてこれほど悲観的なのか?
これは想像ですが、やはり今の若者が育ってきた環境が大きな影響を及ぼしているのではないでしょうか。5月の雑感で指摘したように日本は「失われた30年」と言われるように経済的には低迷しています。こうした中で育ってきた若者が自国の将来に悲観的になるのはある意味やむを言えないことであり、むしろ現実を冷静にとらえていると言えるのかもしれません。
次に取り上げるのは「自分と社会の関わりについて」という設問です。
この設問では11の項目にわたって「そう思う」かどうかを質問しています。その中で特に注目に値するのが「自分の行動で国や社会を変えられると思う」という項目です。
下図はそれをグラフにしたものです。
これを初めの設問と組み合わせると日本では「自国の将来を悲観しているが、それを自分の力ではどうすることもできない」と感じている若者の割合が高いということになるでしょう。
そしてこれが他国と比べあまりにも顕著だったため結果が発表されるとかなり話題になり、いろいろな意見や考察が出されました。
以下このことについて自分なりの考えを述べていこうと思います。

まず自分としては日本の若者たちが「悲観している」ことよりも「変えることが出来ない」と感じていることにより強い危惧を感じています。
というのは昨年4月の雑感でお話ししたように、人が自由に能動的に行動するためには「何かが出来る、状況を変えられるという実感」が不可欠であり、逆に無力感にとらわれてしまうと活動のエネルギーが湧いてこず主体的・能動的に行動することができなくなってしまうからです。
確かに「国」や「社会」と言えば規模も大きく一個人が与えられる影響は限られています。そのため「自分の行動では変えられない」と感じてしまうのも仕方がないのかもしれません。
しかし原理的に考えれば国や社会を構成しているのは我々一人ひとりの人間なので、その一人ひとりが意識や考えを変えて行動すればそれらは当然変化していくはずです。
ですから自分を国や社会の構成員として自覚していれば、その構成員である自分達が意識して行動すればそれらを「変えられる」と感じられるのではないでしょうか。たぶん日本以外の5カ国ではそうした自覚を持った人の割合が高く、日本では少ないことが調査の結果につながっているような気がします。
実際にこの日本財団の調査でも「自分を大人と思う」とか「自分は責任ある社会の一員だと思う」という人の割合も日本は他国にくらべ低くなっているのです。
日本では国や社会をどこか「自分とは独立して存在している」所与のもののように感じてしまっている人が多いのではないでしょうか。

ではなぜ日本ではそうした傾向が強いのでしょうか?
原因については様々な説があるようですが、自分としてはやはり「教育」の問題を考えざるを得ません。
結論的に言ってしまうと日本の学校教育ではあらかじめ決められていることが多く、生徒が自分たちで決めたり、変えたりする経験があまりにも少ないことが影響しているのではと思うのです。

小さな子供たちを見ていると遊びの中で自分たちでルールを決めたり、変更したりすることがよくあります。こうした姿を見ているとほんの数人という限られた「社会」であっても人間は本来それを変えていく力を持っているのではと感じます。ただそれはあくまで「萌芽的な」もので、そのままで育っていくものではありません。より大きな組織、社会でもそれが出来るようになるためには試行錯誤を含む多くの経験が必要になるでしょう。当然そこでは大人からの押し付けでない適切なアドバイスも必要になると思います。
ですからそのためには自分たちで決めたり、変えたりする経験が出来る環境を意識的に作っていくことが欠かせません。ところがこれまでの日本の学校ではこうした視点がまったく欠けていたのではないかと思うのです。決められた校則、決められた行事、決められた学習、そのような自分たちで作ったり、変更できない環境で育てば、自分の属する組織や社会を「変えることのできないもの」と感じるようになっていくのも当然ではないでしょうか。
ただつい最近になっていわゆる「ブラック校則」を見直し、生徒たちが自ら校則を考えていく動きも見られるようになってきました。これはとても良いことだと思います。
手前味噌の話になりますが、生野学園では創立以来ずっと生徒たちが「自分たちで決めること」「自分たちで変えること」を大切にしてきました。たとえば年度初めではほとんどの行事が白紙です。様々な行事をやるかやらないかは生徒が自分たちで決め、やるとなったら実行委員会を立ち上げみんなで議論しながら作っていくのです。また寮生活でも決め事やルールは寮委員が中心になって生徒たちが決めていきます。
こうした経験を積むことで自分たちの属する組織、社会を自分たちで変えていく力を身につけてほしいと願っています。

若者の抱く「無力感」についてもう一つ思うことがあります。
例えば選挙に参加しない人が「自分の一票なんて取るに足らないから行っても行かなくても変わらない」という理由を話すことがあります。確かに一票だけの持つ力は微々たるものですが、このように思ってしまうのは自分と同じような考えを持っている「仲間」の存在を感じることが出来ないからではないでしょうか。
もし社会に属する人たちが全くバラバラの考えを持っているのなら選挙で特定の一人の考えを実現するのは不可能です。しかし実際には物事に対する意見や考え方にはそんなに多くの種類があるわけではなく、社会の中には同じような考えや意見をもった「集団」が存在するはずなのです。もし自分がそういった集団の一員であると意識し、同じ集団に属する人たちを「仲間」と感じることができれば、自分の投ずる一票は仲間達の一票と合わさることで確かな力になると感じることができるのではないでしょうか。
こうした感覚が育っていないことも日本の若者の「無力感」につながっているのではと推測しています。そしてそうした感覚もまた自分たちで決めたり、変えたりする経験の中で身についていくのではと思うのです。
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