「読解力の低下」について考える
2学期の寮生活を開始してほぼ1ヶ月が経ちました。
8月末には寮生活をしいている学校で新型コロナウイルスのクラスター感染が起きたこともあり、不安を抱えたスタートでしたが、これまでのところ無事に寮生活を送っています。
さて先月の雑感では再来年からスタートする高校の新指導要領で現代国語が「文学国語」と「論理国語」に分けられることについてお話ししました。ただ改めて考えてみると、なぜ新しい科目である「論理国語」が必要と考えらるようになったのかについてもう少し言及するべきだったと反省しています。
そこで今月はその説明から始めようと思います。
「論理国語」誕生の背景には日本の子どもたちの「読解力」の低下に対する懸念があります。
日本はOECD(経済協力開発機構)による国際的な学習到達度調査であるPISA(Program for international student assessment)に参加していますが、その2018年の結果を見ると、数学的リテラシーは参加79か国・地域の中で6位、科学的リテラシーは5位とまずまずの成績ですが、読解力に関しては15位にとどまっています。15位というのは決して低い成績ではありませんが、2012年は4位、2015年は8位だったので統計的にも有意な低下が見られます。
今回の新指導要領は2018年の結果が出る前に制定されたものですが、国語科改定の理由として2015年の結果に言及し「前回調査と比較して平均得点が有意に低下していると分析がなされている。(中略)情報化の進展に伴い,特に子供にとって言葉を取り巻く環境が変化する中で, 読解力に関して改善すべき課題が明らかとなった」としています。
実はPISAにおいて読解力の成績が有意に下がったのは今回が初めてではありません。
2000年に8位だったのが、2003年と2006年がそれぞれ14位、15位と下がっています。この時は「PISAショック」と言われ、日本の教育がそれまでの「ゆとり教育路線」から「学力向上路線」への転換していく一つのきっかけにもなりました。
文部科学省はこれをうけて2005年に「読解力向上プログラム」を発表しています。そこではPISAの問題が単に知識や技能の有無を問うものではなく、それを実生活の様々な面で直面する課題においてどの程度活用できるかを評価していることを受け、そうした「PISA型の読解力」をつけるために必要な対応が示されました。 こうした対応が奏功したのか2009年のPISAでは読解力が4位に上昇したのですが、これが長続きせずに再び下落傾向に陥っているのが現状なのです。
そうしてみるとむしろ2009年の4位というのが「例外的」に見えてきます。「読解力向上プログラム」はその時点でのPISAの問題には有効ではあったものの「子供にとって言葉を取り巻く環境が変化」してPISAの問題が変化すれば、それでは対応しきれなくなり元の順位に戻っていった、というのが実情ではないかと思えるのです。
そうであれば日本の子どもたちの読解力の低下傾向は長期的なものであり、その原因は「ゆとり教育」とかいったレベルよりももっと深いところにあることになります。(このあたりのことは後半で考えてみます。)
そしてPISAの結果をより詳しくみると、得点の高い層はあまり減っていないけれど、得点の低い層の割合が増加しているしていることが平均点を下げている主な要因であることがわかります。
これは新井紀子さんが「AI vs 教科書の読めない子どもたち」で指摘されているように、基本的な文章を正確に読解する力をつけていない高校生が相当数存在することを示していると思います。
こうした背景のもとで「論理国語」は導入され、それを巡って様々な意見が出されていることは先月にお話しした通りです。
以下「論理国語」に対する自分の意見を述べておきます。
「論理国語」が「まだしっかりとした読解力を身に付けていない子どもたち」を対象とし、その子たちが基本的な文章を正確に読み取る力をつけることにつながるのであれば、それはとても有意義なことであると思います。その一方で「すでに基本的な読解力を身につけている子どもたち」であれば「論理的に考えたり、表現する力」は数学や科学などの学習の中で身についていくものなので、わざわざ「論理国語」という科目を増設し、そこで学ぶ必要があるのかは疑問です。厳密な論理は数学で学んだほうが正確でしょう。 そして本来であれば教科書の文章を読めるぐらいの読解力は義務教育終了までに身につけるのが望ましく、高校の「論理国語」でそれに対応することは現状に対する「対症療法」的な手段にすぎない。義務教育段階でのより抜本的な対応を伴うべきである、というのが自分の考えです。
それにしても日本の子どもたちの読解力はなぜ低下したのでしょうか?
それについて少し考察してみようとおもいます。
ただ以下の話は明確な根拠があるものではなく、あくまで自分の想像することであることをあらかじめお断りしておきます。
そもそも人間は読解力、より広く言えば言語能力というものを幼少期から長い長い時間をかけて獲得していきます。以前にもお話ししましたが、言語というのは「社会の中で使われているように使うもの」なので他者との対話を通して一つ一つ意味が分かるようになっていくものです。幼少のころは親や家族の関わり、途中からは学校での大人や仲間たちとの関わりの中で言葉の意味、使い方を習得していきます。
それは学校で新たなことを学習する時も同じですが、新たに習うことの意味を理解するためには時間をかけた丁寧な対応が必要になるため、どうしても「とりあえず出来るようにする」ことを目標にし、手っ取り早く「やり方だけを暗記させる」ということが行われがちです。特に一クラスの人数が多い場合には一人ひとりに合わせた対応は難しく、こうした対応に頼らざるを得ないのではないでしょうか。
子どもたちにしても難しい理屈を理解しなくても、一時的に我慢して「やり方」を覚えておけば当面のテストは突破できるので、こうした「暗記的な方法」に頼りがちになります。そして一旦この方法に頼ってしまうと、さらに意味がわからなくなり、ますます「暗記的な方法」に頼るという悪循環に陥ってしまいます。
たぶん教育現場の先生たちも本来は丁寧に意味を理解させるべきだとは思っているはずですが、やはり当面のテストを突破させるために「やり方を覚えさせる」方法に頼らざるを得なくなっているのだと思います。 そしてこうしたことの積み重ねの中で「わかることの楽しさ」が忘れられ「意味を理解する」ことを諦めてしまっている子どもたちが増えてきたことが読解力低下の原因になっているのではないでしょうか。 誰もが「おかしい」と思っていても、すでに動いてしまっているシステムはなかなかストップさせることができない、というのは日本の社会ではよく見かける光景です。
読解力低下の問題の根底にもこのことがあるのではないでしょうか?
8月末には寮生活をしいている学校で新型コロナウイルスのクラスター感染が起きたこともあり、不安を抱えたスタートでしたが、これまでのところ無事に寮生活を送っています。
さて先月の雑感では再来年からスタートする高校の新指導要領で現代国語が「文学国語」と「論理国語」に分けられることについてお話ししました。ただ改めて考えてみると、なぜ新しい科目である「論理国語」が必要と考えらるようになったのかについてもう少し言及するべきだったと反省しています。
そこで今月はその説明から始めようと思います。
「論理国語」誕生の背景には日本の子どもたちの「読解力」の低下に対する懸念があります。
日本はOECD(経済協力開発機構)による国際的な学習到達度調査であるPISA(Program for international student assessment)に参加していますが、その2018年の結果を見ると、数学的リテラシーは参加79か国・地域の中で6位、科学的リテラシーは5位とまずまずの成績ですが、読解力に関しては15位にとどまっています。15位というのは決して低い成績ではありませんが、2012年は4位、2015年は8位だったので統計的にも有意な低下が見られます。
今回の新指導要領は2018年の結果が出る前に制定されたものですが、国語科改定の理由として2015年の結果に言及し「前回調査と比較して平均得点が有意に低下していると分析がなされている。(中略)情報化の進展に伴い,特に子供にとって言葉を取り巻く環境が変化する中で, 読解力に関して改善すべき課題が明らかとなった」としています。
実はPISAにおいて読解力の成績が有意に下がったのは今回が初めてではありません。
2000年に8位だったのが、2003年と2006年がそれぞれ14位、15位と下がっています。この時は「PISAショック」と言われ、日本の教育がそれまでの「ゆとり教育路線」から「学力向上路線」への転換していく一つのきっかけにもなりました。
文部科学省はこれをうけて2005年に「読解力向上プログラム」を発表しています。そこではPISAの問題が単に知識や技能の有無を問うものではなく、それを実生活の様々な面で直面する課題においてどの程度活用できるかを評価していることを受け、そうした「PISA型の読解力」をつけるために必要な対応が示されました。 こうした対応が奏功したのか2009年のPISAでは読解力が4位に上昇したのですが、これが長続きせずに再び下落傾向に陥っているのが現状なのです。
そうしてみるとむしろ2009年の4位というのが「例外的」に見えてきます。「読解力向上プログラム」はその時点でのPISAの問題には有効ではあったものの「子供にとって言葉を取り巻く環境が変化」してPISAの問題が変化すれば、それでは対応しきれなくなり元の順位に戻っていった、というのが実情ではないかと思えるのです。
そうであれば日本の子どもたちの読解力の低下傾向は長期的なものであり、その原因は「ゆとり教育」とかいったレベルよりももっと深いところにあることになります。(このあたりのことは後半で考えてみます。)
そしてPISAの結果をより詳しくみると、得点の高い層はあまり減っていないけれど、得点の低い層の割合が増加しているしていることが平均点を下げている主な要因であることがわかります。
これは新井紀子さんが「AI vs 教科書の読めない子どもたち」で指摘されているように、基本的な文章を正確に読解する力をつけていない高校生が相当数存在することを示していると思います。
こうした背景のもとで「論理国語」は導入され、それを巡って様々な意見が出されていることは先月にお話しした通りです。
以下「論理国語」に対する自分の意見を述べておきます。
「論理国語」が「まだしっかりとした読解力を身に付けていない子どもたち」を対象とし、その子たちが基本的な文章を正確に読み取る力をつけることにつながるのであれば、それはとても有意義なことであると思います。その一方で「すでに基本的な読解力を身につけている子どもたち」であれば「論理的に考えたり、表現する力」は数学や科学などの学習の中で身についていくものなので、わざわざ「論理国語」という科目を増設し、そこで学ぶ必要があるのかは疑問です。厳密な論理は数学で学んだほうが正確でしょう。 そして本来であれば教科書の文章を読めるぐらいの読解力は義務教育終了までに身につけるのが望ましく、高校の「論理国語」でそれに対応することは現状に対する「対症療法」的な手段にすぎない。義務教育段階でのより抜本的な対応を伴うべきである、というのが自分の考えです。
それにしても日本の子どもたちの読解力はなぜ低下したのでしょうか?
それについて少し考察してみようとおもいます。
ただ以下の話は明確な根拠があるものではなく、あくまで自分の想像することであることをあらかじめお断りしておきます。
そもそも人間は読解力、より広く言えば言語能力というものを幼少期から長い長い時間をかけて獲得していきます。以前にもお話ししましたが、言語というのは「社会の中で使われているように使うもの」なので他者との対話を通して一つ一つ意味が分かるようになっていくものです。幼少のころは親や家族の関わり、途中からは学校での大人や仲間たちとの関わりの中で言葉の意味、使い方を習得していきます。
それは学校で新たなことを学習する時も同じですが、新たに習うことの意味を理解するためには時間をかけた丁寧な対応が必要になるため、どうしても「とりあえず出来るようにする」ことを目標にし、手っ取り早く「やり方だけを暗記させる」ということが行われがちです。特に一クラスの人数が多い場合には一人ひとりに合わせた対応は難しく、こうした対応に頼らざるを得ないのではないでしょうか。
子どもたちにしても難しい理屈を理解しなくても、一時的に我慢して「やり方」を覚えておけば当面のテストは突破できるので、こうした「暗記的な方法」に頼りがちになります。そして一旦この方法に頼ってしまうと、さらに意味がわからなくなり、ますます「暗記的な方法」に頼るという悪循環に陥ってしまいます。
たぶん教育現場の先生たちも本来は丁寧に意味を理解させるべきだとは思っているはずですが、やはり当面のテストを突破させるために「やり方を覚えさせる」方法に頼らざるを得なくなっているのだと思います。 そしてこうしたことの積み重ねの中で「わかることの楽しさ」が忘れられ「意味を理解する」ことを諦めてしまっている子どもたちが増えてきたことが読解力低下の原因になっているのではないでしょうか。 誰もが「おかしい」と思っていても、すでに動いてしまっているシステムはなかなかストップさせることができない、というのは日本の社会ではよく見かける光景です。
読解力低下の問題の根底にもこのことがあるのではないでしょうか?