コロナ禍の1年を振り返る
2020年が暮れようとしています。
新型コロナウイルスの感染拡大というかつてない事態に直面したこの年は長く人々の記憶に残ることになるのでは思います。
この雑感でも何回かにわたり新型コロナウイルスのことに言及してきましたが、年の終わりに向けて、やはりこの話題にふれないわけにはいかない気がします。

世界中の人達が新型コロナという一つの事態に同時に向き合わざるを得ない状況が続いていますが、改めて思うのは、人によってその捉え方が驚くほど異なるということです。
検出されたウイルスの遺伝子解析を進め、変異株を分析する作業にあたっている科学者がいる一方で、「ウイルスはフェイクだ」として頑なにその存在すら認めない人達もいる。あるいは徹底してPCR検査をし感染者を発見して隔離するべきだという意見に対し、「コロナはインフルエンザと対して変わらない。なによりも経済を優先すべきだ」と反論する人も多くいます。
同一の事象に対しこれほどまでに差があることを目の当たりにすると、改めて人間の認識や価値観は一筋縄ではいかないことを痛感します。
そしてこうした差は、もともとそれぞれの人達が持っていた考え方や価値観の違いに加えて、新型コロナウイルスの特徴である「人によって症状の出方が大きく異なること」も影響しているように思います。実際、感染から数日で亡くなってしまう人がいる一方で、感染しても無症状のままの人もいる。あるいは感染者の年令によって重症化率や死亡率が大きく異る。そうしたことが危機意識の差につながっているのではないでしょうか。

そんな状況の中でこのウイルスを「正当にこわがる」のはなかなか難しいことです。
ちなみに余談になりますが、この「正当にこわがる」という言葉は、物理学者の寺田寅彦さんが浅間山の噴火についてふれた「小爆発2件」という昭和10年に書かれた随筆の中で使われた言葉です。近年は「正しく恐れる」と言い換えられて「必要以上に恐れるな」という文脈で使われることが多くなっているように思われますが、寺田さんは「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた」と書かれています。

この寺田さんの使われた意味で新型コロナウイルスを「正当にこわがる」ためには、様々な資料や文献、多くの人の意見や考察にふれ、しかもそれを鵜呑みにするのではなく、自分自身で批判的精神をもって論理的に考える必要があると思います。
しかし現実にはマスメディアやネット上では残念ながら一面的なものの見方や、明らかに学習不足と思われるものがまかり通っているようです。

そんな中で皆さんにぜひ読んでもらいたいものがあります。
それは12月28日に発表された和歌山県知事の仁坂吉伸さんのメッセージです。
仁坂さんはこの中で実際のデータに基づいて、自分たちの考えが間違っていた部分も含めて、非常に説得力のある考察をされています。
直接読んでもらうのが一番なのでここでは細かい内容にはふれませんが、学校での感染予防を考える上でも参考になることがとても多くありました。また遺伝子解析まで駆使して感染ルートを細かく調べ上げている職員の方のご努力には敬服させられるものがありました。
近畿圏のなかで和歌山の新規感染者が少ないのは、こうした考察のもとに一貫した対策をされているからなのではと感じます。他県に住む人にとっても「正当にこわがる」ための貴重な資料になると思います。

これに対し、政府のコロナ対策にはどこかチグハグさを感じざるを得ません。
先日、経済学者の野口悠紀雄さんが新聞のインタビューで日本政府のコロナ対策について次のように話されていました。
「一言でいうと『哲学』がない。日本として、何を最重要視し、そのために何をしていくのか。そもそもその方向性が今もってよくわからない。私は恐怖すら感じます。」

たしかにGoToなどでの方針の揺れ動きを見るとうなずける意見です。
これはしっかりとした原理原則に基づいて物事を決めるのではなく、その場その場で利害を調整しバランスを取ることを目的としていることによるのではないでしょうか。どうも日本の社会では組織の内部や、いくつかの組織の間で一部が突出しないようにバランスを取り利害を調整しすることを重視する傾向があります。これはたぶん江戸時代から続く日本社会の宿痾のようなものだと思っていますが、今回のコロナ対策でも関係する省庁や官邸の間で利害調整がなされ「落とし所を探る」ような決定がされていることがこの「揺れ動き」の原因ではないかと思うのです。

「平時」であれば利害調整型の決定は重宝されるのかもしれません。そしてそうしたことに長けた政治家も多くおられます。でもそうした決定が役に立つのはあくまで「内輪」の間だけであって、危機にあたって全体の方向性を決めるときには無力です。にもかかわらず、そうした決定法を続けているために、外部から見たらわけのわからない、おかしな決定がなされてしまうのでしょう。
危機に対処するためには「何を優先するのか」という原則をしっかり持った上で、データを元に科学的、論理的に判断し、目指すべき方向性を打ち出し、さらに現場の状況に合わせ柔軟に対処していくということが必須であると思います。
そして、こうしたことが出来てこなかったことが歴史的に見ても日本が重要な場面でミスをしてきたことの根底にあるのかもしれません。
だいぶ話が大きくなってしまいました。
ただ長い目で見ればこうした状況は変えていかなければならないでしょう。
そのためには地道ではあるけど、私たち一人ひとりがしっかりと物事を考え判断し、しっかりとしたリーダーを選ぶことができるようになることが必要だと思います。
そしてそれは結局「教育の課題」ということになるのですが・・。
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