複雑な事象を理解する方法
10月の雑感では「全体像を知ることの難しさ」についてお話しました。
実際、人間は全体像に限らず複雑なものの認識が苦手で、ついつい単純化したり一面的な見方に陥りがちです。ただいつも「難しい」と言っているだけでは進展がないので、今回は自分なりに一面的な見方に陥らないように気をつけていることをお話ししようと思います。
まず最初に確認しておきたいのはやはり「複雑なものを複雑なままで認識するのは困難である」ということです。そんなことができるのは一部の天才的な能力を持った人に限られるのではないでしょうか。例えば数学の世界で天才的な能力を発揮する人は抽象的で複雑な数学的対象をあたかも目の前に実在するもののように捉えているのではと思われるフシがあります。これは「頭がいい」といったレベルの話ではなく、そもそも「見えている世界が違う」のであって、我々とは「住んでいる世界が違う」のだと思っています。ただこういった人たちも別の分野になると全く周りが見えていなかったりすることがあるのは不思議な事ですが・・
ではわれわれ凡人はどうしたらいいのか?
やはり一度は「単純化」せざるを得ないと思っています。まずは物事を複雑にしている要因を捨象したり、特別な条件のもとで考えたりして、なるべくシンプルでわかりやすいモデルを考えてみるのです。これは実際には存在しないもので、ある種の「思考実験」のようなものなのですが、こうして作ったモデルを考察することで対象にしている物事の基本的な特徴を把握することが出来ます。
もちろんここで留まってしまったら、それは単なる単純化に過ぎません。ですから次に一旦は捨象した要因を少しづつ戻したり、条件を変えたりして基本的な特徴がどう変化していくのかを段階的に考えていくのです。平たく言えば基本を抑えた上で徐々に複雑なものを考えていくということでしょうか。
例をあげます。
経済学の中には段階的な方法を取るものがあります。いきなり複雑な経済現象を分析するのは難しいので、まず歴史的な経緯とか地域的な要素を全部捨象してしまった資本主義経済の純粋なモデルを考え、それを調べることで資本主義経済に共通する法則性を見つけ出すのです。
次に様々な歴史的な要因、経済以外の要素なども加えていくとその法則性がどのように形を変えるのかを考察します。
そして最後にそれを踏まえて今起きている個々の現象を把握していくのです。
これは経済学という大きなスケールの話ですが、身近なところにも段階的なアプローチが有効なことことは多いと思います。
例えば自分がコンピュータープログラムを作成するときは、まずシンプルで確実に動く基本のモデルを作り、そこから実際に使えるような機能をを段階的に動作を確認しながら付け加えるということをしています。それでも思ったように動かなくなって、その原因をあれこれ考えることがよくあるのですが・・
こうした手法を整理すると次のようになるかと思います。(これも単純化ですが・・)
1. まず単純化することで「本来ならばこうなるはずだ」という「原理」を見つける。
2. 次に一旦は捨象した要素を戻していくと「それがどう変化するのか」を考える。
3. もし思ったように変化しない場合はそれがなぜかを考える。
4. こうしたことを繰り返し段階的に複雑なものを把握していく。
もう一つ心がけていることがあります。
それはある現象を2つの傾向の「せめぎあい」の結果と捉えることです。
もう少し詳しく言うと、ある状態には「Aになろうとする傾向」と「Bになろうとする傾向」があって、それらがせめぎあった結果「Cになっている」と捉えるのです。
これは人の心理状態ではよくあることです。
たとえば「学校に行きたくない」という気持ちと「学校に行かなければならない」という気持ちの両方があって、それらに苛まれるからしんどいというのが不登校理解の第一歩だと思います。 これを「本当はどうなんだ?」と問い詰めてしまったら子どもを苦しめることにしかなりません。どちらも出処は違うけど本当の気持ちであることは間違いないからです。
他にもアンビバレントとかダブルバインドという言葉に示されるような相反する気持ちや指示に悩まさられることがあるのは多くの人が経験しているのではないでしょうか。
そしてこれは一人の人間の心理にとどまらず、集団や社会にも形を変えて引き継がれているのではないでしょうか。
ある集団や社会にも「Aにむかう傾向」、「Bに向かう傾向」、さらにC、D・・と複数の傾向があって、様々な条件のもとにそれらが拮抗して今の状態になっていると捉えられるのではないか。こう考えると条件によっていろいろと流動する変化、例えば一定の条件のもとでは一気に一つの方向に向かってしまう「集団心理」のような状態もわかりやすくなるのではと思います。
ただし「傾向」は目に見えるものではないので、これはあくまで思考実験であり、単純化したモデルであることは常に意識しておく必要があると思います。
以上、複雑な全体像を理解していくための方法として「一旦単純化した後に段階的にアプローチしていく方法」と「いくつかの傾向のせめぎあいとして把握する方法」を紹介しました。いづれの方法でも大切なことは思い描いたモデルが妥当なものであるかを絶えず検証、修正していくこと、そしてそのために粘り強く考えることだと思います。
前回に引き続いてこんなお話をしたのは、やはり今の社会の風潮として単純化したり決めつけたりする言説、一面的な見方が多く見られることを危惧するからです。
たしかに単純化した言説はわかりやすいく受け入れられやすいでしょう。でもそれでは大切な部分がたくさん抜け落ちてしまいます。
自分の感覚では以前はもう少し細部も大切にした言説とその蓄積がありました。ところが最近は安易な言説ばかりが目立ち、大切な蓄積すらも失っているように思うのです。
これはある意味で日本の「中心」とも言える国会の議論などを聞いていても感じることです。
そしていつも同じような結論になってしまうのですが、こうした状況を打開するのはやはり教育の課題ということになります。 10年、20年、あるいはそれ以上の長期的な展望で「きちんと考える習慣」を身につけるような教育に変えていくことが、日本の社会が生き延びる道なのではないでしょうか。
実際、人間は全体像に限らず複雑なものの認識が苦手で、ついつい単純化したり一面的な見方に陥りがちです。ただいつも「難しい」と言っているだけでは進展がないので、今回は自分なりに一面的な見方に陥らないように気をつけていることをお話ししようと思います。
まず最初に確認しておきたいのはやはり「複雑なものを複雑なままで認識するのは困難である」ということです。そんなことができるのは一部の天才的な能力を持った人に限られるのではないでしょうか。例えば数学の世界で天才的な能力を発揮する人は抽象的で複雑な数学的対象をあたかも目の前に実在するもののように捉えているのではと思われるフシがあります。これは「頭がいい」といったレベルの話ではなく、そもそも「見えている世界が違う」のであって、我々とは「住んでいる世界が違う」のだと思っています。ただこういった人たちも別の分野になると全く周りが見えていなかったりすることがあるのは不思議な事ですが・・
ではわれわれ凡人はどうしたらいいのか?
やはり一度は「単純化」せざるを得ないと思っています。まずは物事を複雑にしている要因を捨象したり、特別な条件のもとで考えたりして、なるべくシンプルでわかりやすいモデルを考えてみるのです。これは実際には存在しないもので、ある種の「思考実験」のようなものなのですが、こうして作ったモデルを考察することで対象にしている物事の基本的な特徴を把握することが出来ます。
もちろんここで留まってしまったら、それは単なる単純化に過ぎません。ですから次に一旦は捨象した要因を少しづつ戻したり、条件を変えたりして基本的な特徴がどう変化していくのかを段階的に考えていくのです。平たく言えば基本を抑えた上で徐々に複雑なものを考えていくということでしょうか。
例をあげます。
経済学の中には段階的な方法を取るものがあります。いきなり複雑な経済現象を分析するのは難しいので、まず歴史的な経緯とか地域的な要素を全部捨象してしまった資本主義経済の純粋なモデルを考え、それを調べることで資本主義経済に共通する法則性を見つけ出すのです。
次に様々な歴史的な要因、経済以外の要素なども加えていくとその法則性がどのように形を変えるのかを考察します。
そして最後にそれを踏まえて今起きている個々の現象を把握していくのです。
これは経済学という大きなスケールの話ですが、身近なところにも段階的なアプローチが有効なことことは多いと思います。
例えば自分がコンピュータープログラムを作成するときは、まずシンプルで確実に動く基本のモデルを作り、そこから実際に使えるような機能をを段階的に動作を確認しながら付け加えるということをしています。それでも思ったように動かなくなって、その原因をあれこれ考えることがよくあるのですが・・
こうした手法を整理すると次のようになるかと思います。(これも単純化ですが・・)
1. まず単純化することで「本来ならばこうなるはずだ」という「原理」を見つける。
2. 次に一旦は捨象した要素を戻していくと「それがどう変化するのか」を考える。
3. もし思ったように変化しない場合はそれがなぜかを考える。
4. こうしたことを繰り返し段階的に複雑なものを把握していく。
もう一つ心がけていることがあります。
それはある現象を2つの傾向の「せめぎあい」の結果と捉えることです。
もう少し詳しく言うと、ある状態には「Aになろうとする傾向」と「Bになろうとする傾向」があって、それらがせめぎあった結果「Cになっている」と捉えるのです。
これは人の心理状態ではよくあることです。
たとえば「学校に行きたくない」という気持ちと「学校に行かなければならない」という気持ちの両方があって、それらに苛まれるからしんどいというのが不登校理解の第一歩だと思います。 これを「本当はどうなんだ?」と問い詰めてしまったら子どもを苦しめることにしかなりません。どちらも出処は違うけど本当の気持ちであることは間違いないからです。
他にもアンビバレントとかダブルバインドという言葉に示されるような相反する気持ちや指示に悩まさられることがあるのは多くの人が経験しているのではないでしょうか。
そしてこれは一人の人間の心理にとどまらず、集団や社会にも形を変えて引き継がれているのではないでしょうか。
ある集団や社会にも「Aにむかう傾向」、「Bに向かう傾向」、さらにC、D・・と複数の傾向があって、様々な条件のもとにそれらが拮抗して今の状態になっていると捉えられるのではないか。こう考えると条件によっていろいろと流動する変化、例えば一定の条件のもとでは一気に一つの方向に向かってしまう「集団心理」のような状態もわかりやすくなるのではと思います。
ただし「傾向」は目に見えるものではないので、これはあくまで思考実験であり、単純化したモデルであることは常に意識しておく必要があると思います。
以上、複雑な全体像を理解していくための方法として「一旦単純化した後に段階的にアプローチしていく方法」と「いくつかの傾向のせめぎあいとして把握する方法」を紹介しました。いづれの方法でも大切なことは思い描いたモデルが妥当なものであるかを絶えず検証、修正していくこと、そしてそのために粘り強く考えることだと思います。
前回に引き続いてこんなお話をしたのは、やはり今の社会の風潮として単純化したり決めつけたりする言説、一面的な見方が多く見られることを危惧するからです。
たしかに単純化した言説はわかりやすいく受け入れられやすいでしょう。でもそれでは大切な部分がたくさん抜け落ちてしまいます。
自分の感覚では以前はもう少し細部も大切にした言説とその蓄積がありました。ところが最近は安易な言説ばかりが目立ち、大切な蓄積すらも失っているように思うのです。
これはある意味で日本の「中心」とも言える国会の議論などを聞いていても感じることです。
そしていつも同じような結論になってしまうのですが、こうした状況を打開するのはやはり教育の課題ということになります。 10年、20年、あるいはそれ以上の長期的な展望で「きちんと考える習慣」を身につけるような教育に変えていくことが、日本の社会が生き延びる道なのではないでしょうか。