正しい推論と直感について
先日ある食品に含まれる物質の人体への影響が気になってネットで調べてみました。
検索すると、同じことを気にしている人が多いのか、驚くほどたくさんの情報がヒットしました。ところがそれらを読んでいくと、全く正反対の見解があって、どちらも一見するともっともらしい「科学的な装い」で主張されていたのです。一体どちらの主張が正しいのか? あるいは特定の条件のもとではそれぞれの主張が成立することがあるのか? 判断に迷いました。
このときはそれぞれの主張の根拠になっていることをさらに時間をかけて調べ、自分なりに「こっちが正しいのかな」という結論には至りましたが、完全な確証を得たわけではありません。
すでに多くの方が指摘されていますが、誰もがアップできるネット上の情報は「玉石混淆」です。さらに最近は誤解させることを意図したフェイクニュースやデマもたくさん流れているので「石」どころか「毒」もたくさんあります。こうした状況ではよほど注意しないと誤った情報を掴まされてしまうでしょう。
そして今の子どもたちを見ていると、なにかわからないことがあるとすぐにスマホで「グーグル先生」に聞く子が多く、(これもすでに多くの方が言われていることですが)正しい情報を選ぶ判断力、リテラシーを身につけることが教育の重要な課題であると痛感します。
では玉石入り交じるネット上の情報から「玉」を選び出すにはどうしたら良いのでしょうか?
以下、自分なりに心がけていることをお話してみます。
まずはあたりまえのことですが、なるべく多くの情報を調べることです。
検索して最初にヒットした情報だけから判断せず、だいぶ先まで読み込むようにしています。 そして、それぞれの主張が何を根拠にしているのかを読み取り、その根拠について更に調べていきます。これを繰り返し、確実な根拠、例えば追試可能な実験結果とか、誰もが認め信頼できる一次資料とかに行き当たれば、それは正確な情報と判断できるでしょう。
しかし、こうした確実な根拠に行き当たることはむしろ稀なことです。実際には実験データや一次資料であっても、その解釈を巡っては意見が別れることもあるし、もっと主観の入った判断を根拠としていることが多くあります。
ある主張の正しさが外部から保証されることはあまり期待できないのです。
ではそのような場合はどうすればよいのでしょうか?
外部から正しさを保証されない以上、その主張そのものを吟味して判断するしかありません。このとき自分は「主張そのものが論理的に展開されているかどうか」に注目し、論理に瑕疵がある場合は信用しないようにしています。
例えば自分の狭い経験に基づいた判断をより広い全体にまで適用している主張が結構あります。自分の知っている何人かの✕✕人の特徴から判断して✕✕人はみんな同じ特徴を持っているかのような主張をしたり、自分の知っている現場で見られる現象が他の現場でも一般的にあるような主張をしたり・・。限られた範囲から得た判断を、根拠なく広げてしまっているのです。このような強引な一般化、全体化は明らかに問題があるにもかかわらず実際にはかなり目にします。
また物事の因果関係を深い吟味をせず簡単に断定してしまっている主張もあるように思います。実際の物事は様々な要因が絡まりあい、かなり複雑なものが多く「ある現象Aの原因はBである」と断定することは結構難しいことです。いろいろと条件を変えてもBが起きれば必ずAは起こるのかを調べたり、B以外にもCとかDという要因は絡んでいないのかを考察したりして、慎重に原因を特定していかなければなりません。にもかかわらず、まるで犯人探しをするように「原因は✕✕だ」と断定してしまっている主張も多いように思います。このような単純な主張はわかりやすくアピールしやすい面もありますが、物事を正確には捉えてはいません。ですからこうした主張も信用しないようにしています。
また必要条件と十分条件を取り違えていたり、ある命題が成立するとその逆も成立するような勘違いをしていたりするケースも目にします。
こうした論理的に瑕疵のある主張ではなく、きちんと論理的に展開されている主張を選んでいくのが「玉」に近づく早道ではないかと思っています。
もちろん主張そのものがいくら論理的に展開されていたとしても、前提とする根拠が間違っていれば当然結論も間違いになるので、論理的であるということは正しい主張であるための必要条件に過ぎません。しかし、この必要条件をクリヤーしているものに限るだけでもだいぶ「石」を取り除けるのではないでしょうか。
ただ、一方で人間の思考というのは必ずしも確実なものから一歩一歩、石橋を叩くように論理的に進んでいくだけではありません。時には明確な根拠はなくても直感的に「こうではないか」と予想を立てその方向に進んでいくことが必要になる事もあります。予想をもとにしていろいろと試す中で、それが正しければ後から根拠づけられるということもあるのです。
たとえばガチガチに論理的な数学の世界でも、数学者たちは沢山の予想をしています。「まだ証明は出来ないけどこんなことが成り立つのではないか」という予想を立てるのです。みなさんも解決までに300年もかかった「フェルマー予想」とか、未だ解決されていない「リーマン予想」という言葉を聞かれたことがあるかもしれません。
こうした数学の難しい予想に限らず、人間の思考の過程は予想とその検証という作業の繰り返しであり、そこでは物事の本質を直感的にとらえる力がとても重要なのです。
ですから、ある主張の中に未だ根拠づけられていないものが含まれていても(この文章も含めて)、それ自体はまったく問題はありません。むしろ主張というのはそういうものではないでしょうか。
大切なのは、どの部分が事実に基づく論理的な推論で、どこからが直感に基づく予想なのかの区別が付いていることであり、予想の部分はいずれはしっかりとした検証が必要になることを自覚していることだと思います。逆に直感的な予想をあたかも事実のように語っている主張は信用には足らないのです。
確実な事実から論理的に推論していく力と物事の本質を直感的にとらえる力。これから先、ますます錯綜した情報に溢れていくであろう世界を生きていくためにはこの2つの力が重要になってくるのではないでしょうか?
子どもたちには是非この二つの力を身につけてほしいと思っています。
検索すると、同じことを気にしている人が多いのか、驚くほどたくさんの情報がヒットしました。ところがそれらを読んでいくと、全く正反対の見解があって、どちらも一見するともっともらしい「科学的な装い」で主張されていたのです。一体どちらの主張が正しいのか? あるいは特定の条件のもとではそれぞれの主張が成立することがあるのか? 判断に迷いました。
このときはそれぞれの主張の根拠になっていることをさらに時間をかけて調べ、自分なりに「こっちが正しいのかな」という結論には至りましたが、完全な確証を得たわけではありません。
すでに多くの方が指摘されていますが、誰もがアップできるネット上の情報は「玉石混淆」です。さらに最近は誤解させることを意図したフェイクニュースやデマもたくさん流れているので「石」どころか「毒」もたくさんあります。こうした状況ではよほど注意しないと誤った情報を掴まされてしまうでしょう。
そして今の子どもたちを見ていると、なにかわからないことがあるとすぐにスマホで「グーグル先生」に聞く子が多く、(これもすでに多くの方が言われていることですが)正しい情報を選ぶ判断力、リテラシーを身につけることが教育の重要な課題であると痛感します。
では玉石入り交じるネット上の情報から「玉」を選び出すにはどうしたら良いのでしょうか?
以下、自分なりに心がけていることをお話してみます。
まずはあたりまえのことですが、なるべく多くの情報を調べることです。
検索して最初にヒットした情報だけから判断せず、だいぶ先まで読み込むようにしています。 そして、それぞれの主張が何を根拠にしているのかを読み取り、その根拠について更に調べていきます。これを繰り返し、確実な根拠、例えば追試可能な実験結果とか、誰もが認め信頼できる一次資料とかに行き当たれば、それは正確な情報と判断できるでしょう。
しかし、こうした確実な根拠に行き当たることはむしろ稀なことです。実際には実験データや一次資料であっても、その解釈を巡っては意見が別れることもあるし、もっと主観の入った判断を根拠としていることが多くあります。
ある主張の正しさが外部から保証されることはあまり期待できないのです。
ではそのような場合はどうすればよいのでしょうか?
外部から正しさを保証されない以上、その主張そのものを吟味して判断するしかありません。このとき自分は「主張そのものが論理的に展開されているかどうか」に注目し、論理に瑕疵がある場合は信用しないようにしています。
例えば自分の狭い経験に基づいた判断をより広い全体にまで適用している主張が結構あります。自分の知っている何人かの✕✕人の特徴から判断して✕✕人はみんな同じ特徴を持っているかのような主張をしたり、自分の知っている現場で見られる現象が他の現場でも一般的にあるような主張をしたり・・。限られた範囲から得た判断を、根拠なく広げてしまっているのです。このような強引な一般化、全体化は明らかに問題があるにもかかわらず実際にはかなり目にします。
また物事の因果関係を深い吟味をせず簡単に断定してしまっている主張もあるように思います。実際の物事は様々な要因が絡まりあい、かなり複雑なものが多く「ある現象Aの原因はBである」と断定することは結構難しいことです。いろいろと条件を変えてもBが起きれば必ずAは起こるのかを調べたり、B以外にもCとかDという要因は絡んでいないのかを考察したりして、慎重に原因を特定していかなければなりません。にもかかわらず、まるで犯人探しをするように「原因は✕✕だ」と断定してしまっている主張も多いように思います。このような単純な主張はわかりやすくアピールしやすい面もありますが、物事を正確には捉えてはいません。ですからこうした主張も信用しないようにしています。
また必要条件と十分条件を取り違えていたり、ある命題が成立するとその逆も成立するような勘違いをしていたりするケースも目にします。
こうした論理的に瑕疵のある主張ではなく、きちんと論理的に展開されている主張を選んでいくのが「玉」に近づく早道ではないかと思っています。
もちろん主張そのものがいくら論理的に展開されていたとしても、前提とする根拠が間違っていれば当然結論も間違いになるので、論理的であるということは正しい主張であるための必要条件に過ぎません。しかし、この必要条件をクリヤーしているものに限るだけでもだいぶ「石」を取り除けるのではないでしょうか。
ただ、一方で人間の思考というのは必ずしも確実なものから一歩一歩、石橋を叩くように論理的に進んでいくだけではありません。時には明確な根拠はなくても直感的に「こうではないか」と予想を立てその方向に進んでいくことが必要になる事もあります。予想をもとにしていろいろと試す中で、それが正しければ後から根拠づけられるということもあるのです。
たとえばガチガチに論理的な数学の世界でも、数学者たちは沢山の予想をしています。「まだ証明は出来ないけどこんなことが成り立つのではないか」という予想を立てるのです。みなさんも解決までに300年もかかった「フェルマー予想」とか、未だ解決されていない「リーマン予想」という言葉を聞かれたことがあるかもしれません。
こうした数学の難しい予想に限らず、人間の思考の過程は予想とその検証という作業の繰り返しであり、そこでは物事の本質を直感的にとらえる力がとても重要なのです。
ですから、ある主張の中に未だ根拠づけられていないものが含まれていても(この文章も含めて)、それ自体はまったく問題はありません。むしろ主張というのはそういうものではないでしょうか。
大切なのは、どの部分が事実に基づく論理的な推論で、どこからが直感に基づく予想なのかの区別が付いていることであり、予想の部分はいずれはしっかりとした検証が必要になることを自覚していることだと思います。逆に直感的な予想をあたかも事実のように語っている主張は信用には足らないのです。
確実な事実から論理的に推論していく力と物事の本質を直感的にとらえる力。これから先、ますます錯綜した情報に溢れていくであろう世界を生きていくためにはこの2つの力が重要になってくるのではないでしょうか?
子どもたちには是非この二つの力を身につけてほしいと思っています。