日本経済の停滞と教育の問題について
今月は日本経済の低迷の原因と教育との関係を考えてみます。
IMF(国際通貨基金)の発表によると、2021年の日本のGDP(国内総生産)の成長率は1.62%で193カ国中で158位となっています。随分低い数字ですが、これは最近に始まったことではありません。1990年以降は、年によって上下はありますが、平均すると約1%の成長にとどまっているのです。
人口が多いこともあってGDPそのものは米国、中国につぐ第3位を維持していますが、上位2国との差は開くばかりですし、他の多くの国が3%以上の成長をしている中で「日本だけが取り残されている」という感は否めません。
またIMD(国際経営開発研究所)の発行する「世界競争力年鑑(2021)」によると日本の競争力の総合順位は30位になっています。これも1992年が1位だったことを考えると、残念ながらこの30年間で日本経済は随分と凋落してしまったと言えるでしょう。

このように日本経済が弱体化してしまった原因については様々な方が様々な角度から分析されています。いろいろな説を拝聴した上で自分なりに思うのは、20世紀末からの産業構造の変化が大きな要因になっているのではということです。

20世紀の産業の基本は「工場で機械を使ってものを生産する」ということでした。実際に自動車、家電、鉄鋼、化学プラント・・・本当に多くの工場が作られ大量の製品が生産され経済は発展してきたのです。
こうした工場のシステムや機械そのものの開発にはたぶん天才的な創造性が必要だったと思います。ただ、いったんシステムが出来てしまえばそれを稼働させるのはルーティンワークになります。必要になるのは、マニュアルで決められたことを効率よく、大規模の場合はチームワークを組んで、こなしいていく能力、組織力です。そしてたぶん日本人と日本の社会はこれを得意としており、高い生産性を発揮していたのです。これが日本の競争力を高め、高度成長を支える基盤となったのだと思います。

ところが20世紀の終わりにはコンピューターが全面的に普及し、IT技術も進化したことで機械ややシステムを人間が直接稼働させるのではなくコンピューターが制御するようになっていきます。そこではメンテナンスを除けば人手はかからず、必要なのはコンピューターを動かすためのソフトウェアだけということになります。結果として、これまでは人間が機械を動かすことで生み出されていた付加価値が、IT技術を駆使した新たなシステムを開発するというイノベーション(技術革新)によってもたらされるようになってきたのです。
たぶんこうした変化への対応に日本は遅れていて、それが経済成長の停滞の根底にあるのではと思います。
実際、今も日本が競争力を維持しているのは、製品やその製造過程が複雑で職人的な技能や勘を持った熟練技術者を擁しノウハウを蓄積した組織でしか作れない分野、つまり容易にデジタル化出来ない分野に集中しています。逆にソフトウェアやIT関係のハードウェアなどでは世界的なシェアを誇る企業はほとんどありません。日本はこうした新たな産業分野では付加価値を生み出すイノベーションを起こすことが出来ていないのです。

このあたりは1980年代に自動車産業などで日本に追い上げられ不況に苦しんでいたアメリカが、その後GAFAをはじめとするIT企業がもたらしたイノベーションにより急激な成長に転じたのとは対照的です。

付加価値を生み出す源泉が「工場での労働」から「IT分野でのイノベーション」に変わってきたことは社会にとても大きな影響を及ぼしています。
先述したように工場での労働はルーティンワークなので、訓練を積めば誰もが一定の水準でこなすことが出来ました。ところが「システムの設計」とか「ソフトウェアの開発」はそういうわけには行きません。どうしても特殊な能力が必要になるのです。
そのため、その特殊な能力を有し、付加価値を生み出すイノベーションに成功した企業や、そこに投資した株主に富が集中し、社会に「格差」が広がってきているのです。
社会が存続していくためには生み出された富を何らかのかたちで構成員に分配することが必要です。実際、古代からいろいろな分配のシステムが模索されてきました。今われわれが直面している格差の拡大に歯止めをかけるためには、なんらかの新しい分配システムを導入する必要があると思います。その方法は今後の社会のあり方を決める重要な意味を持つのかもしれません。

一方でソフトウェアの開発などには工場建設のような莫大な資金を必要とせず、誰でも参入しやすいという面もあります。実際、資金のない学生が始めたベンチャービジネスが大きく成長していった例には事欠きません。その意味ではこれまでの資本主義のあり方も変えていく大きな変化と言えるでしょう。

次にこうしたことと教育との関わりについて考えてみます。

多くの方が指摘されていることですが、これまでの日本の教育は20世紀の「工場型」産業を担う人材を育成することでは一定の成果を上げていたと思います。「与えられた課題を素早く正確に処理する能力」「集団の中で協調して決められた役割をこなしていく力」などは確かに身についたのかもしれません。その一方で「自分で考え、自分の意志で動く」とか「今までとは違う新しいことをやってみる」といったことはやりにくかったと思います。
例えばひところもてはやされた「百ます計算」のような反復訓練は「課題を素早く正確にこなす力」や、「単純作業に耐える忍耐力」などの育成には役に立ったかもしれませんが「自ら考える力」や「自ら問う力」の育成には役に立たなかったと思います。
ところが産業構造の変化により、今まで重視してきた能力では対応できないことが増え、むしろ育ててこなかった力のほうが必要になってきたのです。

こうした状況のもと、直接的にはIT分野での人材不足を受け、さすがに「教育を変革しなければ」という気運が高まってきたと思います。そんな中で出されたのが今回の「新学習指導要領」です。この雑感でも何度か取り上げましたが、そこでは「主体的、対話的で深い学び」が掲げられ、小学校でのプログラミング教育も導入されました。これがどのような成果を上げるかはこれから検証されることですが、もし産業界の要請によって単に「役に立つ人材を育成する」といった発想で取り組むのなら、残念ながら失敗すると思います。

以下はその理由の考察です。

まずイノベーションに必要な「資質」とはなんでしょうか?
近年IT分野で最も重要なイノベーションを成し遂げた企業の1つにGoogleが有りますが、その創業者のラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンは共に幼少時にモンテッソーリ教育を受けていたことは有名な話です。そして「そこで身につけたことがGoogleの社風となった」そうです。それは「権威を盲信せず自分で考え、それが正しいかを自分自身で検証すること」「自分のやりたいこと、こんなことが出来たら『面白い』とか『すごい』と思う事を自由に、そして『遊び心』を忘れず徹底的に追求すること」「何事に対しても『なぜそうなっているのか』という疑問を持ち続け、自分自身や他者に問いを投げかけること」等々です。
もちろんIT分野でイノベーションを起こすためには専門的な知識も欠かせないのですが、それにこうした資質が組み合わさることでGoogleは画期的な成果を生んで来たのです。

ただ、こうしてGoogleが大切にしてきたことを書き並べてみると、これは何もIT分野でのイノベーションに限ったことではなく、広く一般に「新しいことをする」ために必要な「資質」のようにも思われます。
これらは、自然や人を相手にする場合であっても、創造的で本当に意味のある関わりをしようと思えば欠かせない資質であり、これからの世界を生きていく上で重要な役割をになうものかもしれません。

問題はこうした「資質」はどのような教育によって身につくのか? ということです。
Googleの2人が受けたモンテッソーリ教育は、子ども自身の「学ぶ力」を信じ「適切な環境があれば必ず子どもは自分の力で多くのことを学んでいく」という信念のもとに、徹底的に自主性を大切にする教育です。子どもたちには「しっかりと考え抜かれた環境」を用意しますが、教師が何かを教え込むことはせず、子どもたちが自ら学んでいくことを大切にするのです。
このモンテッソーリの方法が示唆しているのは新しいものを生み出す資質を身につけるためには「自由な環境のもとで自らの意思でやりたいことをやってみる」という体験が必要だということではないでしょうか。

もしそうであれば、今回の新学習要領で目指す「主体的で対話的で深い学び」を実現できるかどうかは「子どもたちにどこまで自由な環境を用意できるか」「その環境の中でどれだけ自主的な学びを引き出すことができるか」ということにかかっていると言えます。
しかし長年にわたり子どもたちを「管理」し、多くのことを教え込んできた学校がすぐに変わっていけるかはかなり疑問です。
自由な環境のない状態で「付け焼き刃』的に「プログラミング教育」をすることでIT人材を確保しようとしても、本当に重要なイノベーションをもたらすような資質は身につかないのではないか。それが失敗を危惧する理由です。
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