時の流れ

椿野浩二

創立20周年記念誌よりより

高星山の麓で人がいた痕跡を少し捜したことがある。石のごろごろした土地ではあるが高台で日当たりもよく離れているが川もあり水も大丈夫だ。川も昔はもっと高い位置にあったと思う。ゆっくり捜せば古代人の痕跡を捜せるかもしれない、がやっぱり人は住めそうにない、土地が豊かではないから。そんな土地に生野学園はある。住めそうにない大地を住める場所にし大きな夢の固まりが出現した。夢を実現させるスタッフが集まり現在まで二十年良くやっていると思う。
 学園は、ゆったり時間が流れている。ゆったりした時間の中で大変だった創世期のことを忘れかけている。忘れていいのである。前進する力は常に前にあり後は少しの過去だけでいい。スタッフも若返り二十年のときの流れは、とてもいい流れにあると思う。その流れの中に私は、美術の非常勤講師として三期生から付き合い始めた。最初私は、美術の講師として美術を教え指導しよう、何かを教えようという気持ちが強く、いろんなことをしてみようとした。けれど、学園の時間は人それぞれバラバラでゆっくり流れていて、私の時間の流れとはかなり違っていた。学園の流れにいたら何もできなくなる。だからといって何もしないわけにはいかない。美術中心の付き合いを止めた。話し相手になることに努めた。とにかく何でもいろんなことを話し、時には河原で遊び、公園で遊ぶ、なにやら料理を作って楽しむ、美術は、後からついてくればよい、そんな気持ちで付き合うことで友達にはなれないが、それに近い関係にはなれたと思う。年が離れていて友達にはなれない分、先輩という位置に身を置くことができた。これでやりやすくなった。私自身をしっかり見せることができる画家と言う仕事も個展の搬入などの手伝いをしてもらいながら感じてもらう。人間関係が凄く自然になっていったと思う。
 物作りをするときも無理をしないように、無理をしたくなかった。河原や公園で遊んだときも近くのスーパーでおやつを買いただ話をし遊ぶ。絵を描いたことはない。しかし、遊びの中で、いろんな世界がいろんな顔を見せてくれた。教室での遊びの絵を描く人、陶芸をやり始める人、寮で作ってくれた作品を見せてくれる人、中学時代の作品を見せてくれる人。その時、これだと思ったことは先輩として少し高いレベルの話をする、決してけなしはしないが次につなげる話をする。プロの作家としての立場と教育者としての立場で。この時私は、美術家として頑張っている人でなくてはならない。だから美術家の仕事を優先しその仕事の中で生徒たちが手伝えることがあれば多いに手伝ってもらった。なかなか普通の学校では出来ないことだが、これから世に出る生徒にとってはいい経験になったと思っている。
 学園からも美術を自分の世界と信じ大学や専門学校に入りプロになっている生徒がいる。学園時代、入学したての頃はもちろんのこと、1年、2年中頃まではそれ程美術に対して強い思いを持ってやっていたわけではないが2年終わりのころから熱中する姿がみられ、一つの目標として陶芸なり絵画なりをめざす気が強く、話すこともその先のことが多くなる。
 大学生としての考え方、大学卒業してからのことなど本格的なことを話す。ここまで付き合うと、学園を卒業したからハイさようなら、というわけにいかず、長い付き合いになっている。東京で個展があるときには必ず連絡し呑みながら話をする。数人から多いときには十名をこす卒業生やその友達と生活のこと制作のこといろんな悩みや楽しみなど、これらのことは今でも続いている。今彼等に私が出来ることは、常に活動を止めることなく世に問いかけていくことで、これはこれでけっこうしんどいものですが、それでもやり続けることでいつも新鮮に彼等と会うことができ、新しい作品のことなど前を向いた彼等に会うことができる。いろんな悩みを抱えながらも夢をあきらめず、プロとして世に出て何とかと頑張っている彼等には、何とかなって欲しい何かしてやりたい、もう講師としての立場からは大きく外れているかもしれないが生野学園だから生まれてくる結果かもしれない。時の流れの中で私の、これからの役目は、若い人達を育てていくことだろう。今まで育てていただいたお礼ではなく当然やらなければならない人としての仕事だろう。それが二十年というときの流れだろう。
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