コロナ対応について改めて考えてみる
自分の趣味の一つにサッカー観戦があります。
特にどこかのチームを応援しているというわけではないのですが、びっくりするようなすごいプレーを見るのが楽しみなので、レベルの高いヨーロッパのリーグ、中でもイングランドのプレミアリーグを中心にTV観戦しています。
今年のプレミアリーグは8月中旬からスタートしたので、先日さっそく観戦したところ、そこには昨年とまったく変わったことが一つありました。
それはスタジアムに観客がいるということです。昨年は新型コロナウイルスのためにすべての試合が無観客で行われ、選手の声や監督の指示だけが聞こえてくる異様な映像が放映されていました。ところが先日行われた開幕戦を見ると多くのファンでスタジアムは満員になっており、マスクもせずに大声で応援している光景が映し出されていたのです。
これを見たとき、イギリスの人たちが「コロナに対して一つの決断をしたんだな」と実感しました。それは「あえてコロナ感染のリスクを引き受けてでも自分たちの思い通りに行動する自由を守る」ということです。
参考までにこれまでのイギリスのコロナ対応を振り返っておくと、初期の頃は「集団免疫の獲得」を目指し、あえて行動の規制などはせず、感染拡大を放置していました。ところがその結果、急激に重傷者、死者が増加する事態に直面し、さすがにこれではリスクが高すぎると判断し、ロックダウンに踏み切ったのでした。そんな中で昨年のプレミアリーグは無観客試合で実施されていたわけです。
しかし、その後イギリスはワクチン接種を迅速に進め、すでに成人の7割近くが2回の接種を済ませています。そこにはワクチンによって少しでも早く「自由」を取り戻そうとする気持ちが込められていました。 ところがデルタ株の出現によりワクチンを2回接種している人でも感染する例が報告され、イギリス政府は難しい判断を迫られることになります。
それは概ね次のような内容だったと思います。
今の段階で制限を解除すれば感染は確実に広がるだろう。ただワクチン接種者は感染しても重症化する割合が低いというデータもある。また昨年から準備を進め感染者を受け入れる病床は十分に確保してある。そうであれば感染は広がっても重傷者、死者は以前よりかなり少なくできるのではないか。そして、その程度のリスクであれば敢えてそれを引き受けてでも「自由」を守るという選択をしてもよいのではないか。
そうした判断から今回の制限の解除に踏み切ったのではないかと思います。
もちろんイギリス国内にも反対意見はあったと思います。しかし決断を下したボリス・ジョンソン首相が大きくは支持を失っていないことをみると、この決定は一定の社会的コンセンサスを得ているのではないでしょうか。イギリス社会が「自由を守る」ことに高い価値をおいていることを改めて痛感しました。
そこには、世界に先駆け17世紀には市民革命を成し遂げ、命がけで自由を獲得してきた人々の強固な文化的な伝統のようなものがあるように感じます。
ただ、この決断には「さらに大きなリスクがある」と指摘する声もあります。
感染症の専門家たちが懸念しているのは、感染が広がるとウイルスが変異する確率が高くなり、ワクチンに耐性をもった株が出現してしまうことです。もしそうなるとワクチンで弱毒化する戦略が覆されてしまうことになります。新たなワクチンの開発とそれに耐性を持ったウイルスの出現というイタチごっこが繰り返される危険があるのです。
こうした懸念もあり「たとえワクチン接種が進んでもあくまで感染抑止の対策はきちんとするべきだ」という考えに立って「ゼロコロナ」を目指している国々もあります。
実際、ニュージーランド、オーストラリア、中国、台湾などでは感染をほとんど抑え込むことに成功して来ました。さすがにデルタ株に対しては苦戦している国もあるようですが、感染者が出た場合はロックダウン的な措置を取り、検査、追跡の徹底により感染を抑え込む姿勢を堅持しています。
「ゼロコロナ」というと「非現実的だ」「できるわけない」という意見もあるようです。確かに実現するまでには長期に渡る制限と、徹底的な検査、隔離が必要になるので大変ですが、いったん実現してしまえば、その域内では自由に行動でき、経済も回すことができるので、あとは入国者の検疫に力を注げば良いことになります。このことを「坂道を登るのは大変だけど、登りきってしまえばあとは楽」と表現した方がおられますが、的確な譬えだと思います。
タラレバの話になりますが、日本でも第一回目の緊急事態宣言のあと感染者がかなり減ったた時期があり、あのときに徹底的な検査と隔離を実行し、入国者の検疫体制も整備しておけば、その後の推移はだいぶ変わっていたのではないかと想像します。
いずれにせよデルタ株出現後のコロナ対応は、イギリスのようにワクチン接種を徹底し、十分な医療体制を確保した上で制限を解除していく方向と、中国に代表されるワクチン接種をした上でゼロコロナを目指していく方向に大別されるのではないでしょうか。
翻って日本でのコロナ対応を見るとどうしても後手後手にまわっているような印象が拭えません。
以前の「雑感」で経済学者の野口悠紀雄さんの日本のコロナ対応への批判を紹介させてもらいました。それは「一言でいうと『哲学』がない。日本として、何を最重要視し、そのために何をしていくのか。そもそもその方向性が今もってよくわからない。私は恐怖すら感じます。」というものでしたが、まさにその印象なのです。
日本社会はイギリスのように「自由を守ること」に高い価値をおいているとは思えません。むしろ自由に振る舞えば「迷惑視」されるのが落ちです。ですからリスクを負ってでも制約を撤廃しようということにコンセンサスは得られないと思います。
それでも「制約を撤廃するべきだ」と主張される方もおられますが、その多くが「コロナは大したことない」という根拠のない楽観論に基づくもので、実際に自宅療養中に亡くなる人が後をたたない状況では説得力は持たないでしょう。
しかし、かと言って「ゼロコロナ」を目指す機運もありません。なぜか日本には独特の「検査抑止論」があって諸外国に比べると検査数がかなり抑えられています。これでは無症状の感染者が知らないうちに感染を広げるという状況が続いていくと思います。
結局「いろいろな我慢を要請され、それに従ってはいるが、守りきれない部分も出てきてズルズルと状況が悪化して来ており、保健所や医療機関など様々な場所で対応しきれなくなっている」というのが現状ではないでしょうか。
学校現場もかなり厳しくなってきました。毎日、兵庫県の感染者発表に目を通しているのですが、最近は10代の子の割合が増えてきており、学校でのクラスター発生の危険はかなり高くなっています。
こうした中で生野学園ではとりあえず2学期の開始から2週間はオンライン授業で対応することにしました。 しかし、以前の雑感でお話したようにまだ抽象的な概念を十分に身に着けていない子どもたちにとっては、オンラインで出来ることには限りがあり、五感を使った実際の体験が欠かせません。生活が必要なのです。 寮生活の再開にむけて、デルタ株の感染リスクをどうしたら減らせるのか、そしてどこまでのリスクを負うべきなのか、早急に判断する必要があると思っています。
特にどこかのチームを応援しているというわけではないのですが、びっくりするようなすごいプレーを見るのが楽しみなので、レベルの高いヨーロッパのリーグ、中でもイングランドのプレミアリーグを中心にTV観戦しています。
今年のプレミアリーグは8月中旬からスタートしたので、先日さっそく観戦したところ、そこには昨年とまったく変わったことが一つありました。
それはスタジアムに観客がいるということです。昨年は新型コロナウイルスのためにすべての試合が無観客で行われ、選手の声や監督の指示だけが聞こえてくる異様な映像が放映されていました。ところが先日行われた開幕戦を見ると多くのファンでスタジアムは満員になっており、マスクもせずに大声で応援している光景が映し出されていたのです。
これを見たとき、イギリスの人たちが「コロナに対して一つの決断をしたんだな」と実感しました。それは「あえてコロナ感染のリスクを引き受けてでも自分たちの思い通りに行動する自由を守る」ということです。
参考までにこれまでのイギリスのコロナ対応を振り返っておくと、初期の頃は「集団免疫の獲得」を目指し、あえて行動の規制などはせず、感染拡大を放置していました。ところがその結果、急激に重傷者、死者が増加する事態に直面し、さすがにこれではリスクが高すぎると判断し、ロックダウンに踏み切ったのでした。そんな中で昨年のプレミアリーグは無観客試合で実施されていたわけです。
しかし、その後イギリスはワクチン接種を迅速に進め、すでに成人の7割近くが2回の接種を済ませています。そこにはワクチンによって少しでも早く「自由」を取り戻そうとする気持ちが込められていました。 ところがデルタ株の出現によりワクチンを2回接種している人でも感染する例が報告され、イギリス政府は難しい判断を迫られることになります。
それは概ね次のような内容だったと思います。
今の段階で制限を解除すれば感染は確実に広がるだろう。ただワクチン接種者は感染しても重症化する割合が低いというデータもある。また昨年から準備を進め感染者を受け入れる病床は十分に確保してある。そうであれば感染は広がっても重傷者、死者は以前よりかなり少なくできるのではないか。そして、その程度のリスクであれば敢えてそれを引き受けてでも「自由」を守るという選択をしてもよいのではないか。
そうした判断から今回の制限の解除に踏み切ったのではないかと思います。
もちろんイギリス国内にも反対意見はあったと思います。しかし決断を下したボリス・ジョンソン首相が大きくは支持を失っていないことをみると、この決定は一定の社会的コンセンサスを得ているのではないでしょうか。イギリス社会が「自由を守る」ことに高い価値をおいていることを改めて痛感しました。
そこには、世界に先駆け17世紀には市民革命を成し遂げ、命がけで自由を獲得してきた人々の強固な文化的な伝統のようなものがあるように感じます。
ただ、この決断には「さらに大きなリスクがある」と指摘する声もあります。
感染症の専門家たちが懸念しているのは、感染が広がるとウイルスが変異する確率が高くなり、ワクチンに耐性をもった株が出現してしまうことです。もしそうなるとワクチンで弱毒化する戦略が覆されてしまうことになります。新たなワクチンの開発とそれに耐性を持ったウイルスの出現というイタチごっこが繰り返される危険があるのです。
こうした懸念もあり「たとえワクチン接種が進んでもあくまで感染抑止の対策はきちんとするべきだ」という考えに立って「ゼロコロナ」を目指している国々もあります。
実際、ニュージーランド、オーストラリア、中国、台湾などでは感染をほとんど抑え込むことに成功して来ました。さすがにデルタ株に対しては苦戦している国もあるようですが、感染者が出た場合はロックダウン的な措置を取り、検査、追跡の徹底により感染を抑え込む姿勢を堅持しています。
「ゼロコロナ」というと「非現実的だ」「できるわけない」という意見もあるようです。確かに実現するまでには長期に渡る制限と、徹底的な検査、隔離が必要になるので大変ですが、いったん実現してしまえば、その域内では自由に行動でき、経済も回すことができるので、あとは入国者の検疫に力を注げば良いことになります。このことを「坂道を登るのは大変だけど、登りきってしまえばあとは楽」と表現した方がおられますが、的確な譬えだと思います。
タラレバの話になりますが、日本でも第一回目の緊急事態宣言のあと感染者がかなり減ったた時期があり、あのときに徹底的な検査と隔離を実行し、入国者の検疫体制も整備しておけば、その後の推移はだいぶ変わっていたのではないかと想像します。
いずれにせよデルタ株出現後のコロナ対応は、イギリスのようにワクチン接種を徹底し、十分な医療体制を確保した上で制限を解除していく方向と、中国に代表されるワクチン接種をした上でゼロコロナを目指していく方向に大別されるのではないでしょうか。
翻って日本でのコロナ対応を見るとどうしても後手後手にまわっているような印象が拭えません。
以前の「雑感」で経済学者の野口悠紀雄さんの日本のコロナ対応への批判を紹介させてもらいました。それは「一言でいうと『哲学』がない。日本として、何を最重要視し、そのために何をしていくのか。そもそもその方向性が今もってよくわからない。私は恐怖すら感じます。」というものでしたが、まさにその印象なのです。
日本社会はイギリスのように「自由を守ること」に高い価値をおいているとは思えません。むしろ自由に振る舞えば「迷惑視」されるのが落ちです。ですからリスクを負ってでも制約を撤廃しようということにコンセンサスは得られないと思います。
それでも「制約を撤廃するべきだ」と主張される方もおられますが、その多くが「コロナは大したことない」という根拠のない楽観論に基づくもので、実際に自宅療養中に亡くなる人が後をたたない状況では説得力は持たないでしょう。
しかし、かと言って「ゼロコロナ」を目指す機運もありません。なぜか日本には独特の「検査抑止論」があって諸外国に比べると検査数がかなり抑えられています。これでは無症状の感染者が知らないうちに感染を広げるという状況が続いていくと思います。
結局「いろいろな我慢を要請され、それに従ってはいるが、守りきれない部分も出てきてズルズルと状況が悪化して来ており、保健所や医療機関など様々な場所で対応しきれなくなっている」というのが現状ではないでしょうか。
学校現場もかなり厳しくなってきました。毎日、兵庫県の感染者発表に目を通しているのですが、最近は10代の子の割合が増えてきており、学校でのクラスター発生の危険はかなり高くなっています。
こうした中で生野学園ではとりあえず2学期の開始から2週間はオンライン授業で対応することにしました。 しかし、以前の雑感でお話したようにまだ抽象的な概念を十分に身に着けていない子どもたちにとっては、オンラインで出来ることには限りがあり、五感を使った実際の体験が欠かせません。生活が必要なのです。 寮生活の再開にむけて、デルタ株の感染リスクをどうしたら減らせるのか、そしてどこまでのリスクを負うべきなのか、早急に判断する必要があると思っています。