気づきや発見に伴う「喜び」について
-- 主体的な学習に必要なもの --
先月の雑感では「人が何かに気づいたり、発見したりするのは他者と対話をしたり、五感を使って外界と触れ合ったりすることが契機となる」というお話をしました。
この気づきや発見、あるいはそれまでわからなかったことが「わかる」といった体験は人の成長にとってとても大切なことだと思うので、今月も続けて考えてみたいと思います。

まずこうした体験の特徴として「自分自身の内的な変化を伴う」ということがあげられます。
どういうことかというと、単に知識としての情報を得るということとは異なり「それまで気づかなかったものに気づく」「見えていなかったものが見える」「わからなかったことが分かる」というのはまさに自分自身が変わる体験であり、結果として自分自身が生きている世界が広がっていく体験だということです。
そしてなぜか人間はこうした体験をしたときに「喜び」を感じるようです。
たぶん皆さんもそうした経験をお持ちのことと思いますが、今回はこの「喜び」について考えてみようと思います。

数学者の岡潔(おか・きよし)はこれを「発見の鋭い喜び」と表現しています。(岡潔によるともとは寺田寅彦の言葉だということですがその出典は見つけられませんでした)
そして自らが数学を学ぶ理由はこの「発見の鋭い喜び」にあると言います。
以下「春宵十話」という本からその部分を引用しておきます。

「よく人から数学をやって何になるのかと聞かれるが、私は春の野に咲くスミレはただスミレらしく咲いているだけでいいと思っている。咲くことがどんなによいことであろうとなかろうと、それはスミレのあずかり知らぬことだ。咲いているのといないのとではおのずからちがうというだけである。私についていえば、ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きているというだけである。そしてその喜びは「発見の喜び」にほかならない。」

これを自分なりに言い換えてみると
「自分は『何かの役に立つ』とか『何かに利用する』といった『外的な目的』のために数学を学ぶのではない。たしかに数学が役に立ったり、便利に利用されることもあるだろう。でもそれは自分のあずかり知らぬことだ。自分自身は『スミレがただスミレらしく咲いているように』『発見の喜び』という内的な動機から数学を学んでいるだけである。」ということでしょうか。

数学者である岡潔は「発見」ということに特定していますが、一般の我々にしてみればもっと些細なことに気付いたり、何かが「わかった」ときに得られる「喜び」なども含めてよいと思います。そしてこうした「喜び」は我々にとっても学びの「内的な動機」になり得るし、それを持つことはとても大切なことではないかと考えています。

もちろん「何かの目的のために学習する」ということは当然あってよいでしょう。
というよりは「受験のため」「就職のため」「資格のため」・・といった目的のためにする学習のほうが一般的なのかもしれません。でも真に「主体的な学習」を長く続けていくためには学習そのものに対する「内的な動機」を持つことが必要であり、そのためには「喜び」や「楽しさ」がとても大切になるのです。

二千年以上も読まれてきた古典中の古典である「論語」は
「子曰く。学びて時にこれを習う。よろこばしからずや。朋有り、遠方より来る。楽しからずや」という文から始まっています。これを強引に解釈すると「学びや友との対話の中で、何かに気づいたり、発見したり、理解することで自分自身が変わり世界が広がっていくことは喜ばしく、楽しいことではないか」と読めないでしょうか。多少無理があるかもしれませんが、堅苦しいイメージのある論語の冒頭で学びの「喜び」や「楽しさ」が述べられていることは傾聴に値すると思います。
今を生きる我々も学習における「喜び」や「楽しさ」をもっと重視するべきではないでしょうか。

ただ、以前にも指摘したことですが明治以来の日本の教育制度は「西洋の技術を取り入れ追いつく」という「外的な目的」のためにデザインされたものです。そこでは効率の良い「集団による一斉授業」が基本となり、学びの「喜び」や「楽しさ」よりは「実用性」「有用性」が重視されてきました。それが21世紀の今、既に目的そのものが消失したにもかかわらず「惰性で継続している」というのが今の状態だと思います。

そして、こうした制度のもとで教育を受けてきた私達の意識の中にも「学習はなにかの役に立つべきだ」という意識が色濃く残っています。それは例えば「ゆとり教育」に対する反感などにも顕著に現れていたのではと思います。
また残念ながら子どもたちの中にも「学習は面白くないけどしかたなくするもの」という意識を持った子が多いように思われます。確かに小学校の段階から何度も反復練習させられ、大量の宿題まで出されたら「喜び」や「楽しさ」は感じられず「訓練」とか「修行」のように感じてしまうのも当然かもしれません。

そんな中で文科省の新しい学習指導要領では「主体的で対話的で深い学び」が目指されています。これ自体には全く異論はないし、素晴らしいことなのですが、それを実現するためにはこれまで述べてきた「喜び」や「楽しさ」をしっかり見直すことが必要なのではと思います。

本来、学習というものは楽しくワクワクするものであるはずです。
新たなことを知ること自体が驚き満ちたことですし、五感を使って自然に触れ観察する中でいろいろな発見をしたり、ときには難しいことをとことん考えてみたり、突然「あ、そうか!」と何かに気づいてこれまでの見方がガラッと変わる経験をしたり・・そんなワクワクする経験に満ちたものが学習であるはずです。そうであれば外部に目的がなくてもそれ自体が目的になり主体的に取り組めるのではないでしょうか。
そしてその中で身につけた知識や技術、新しい見方や考え方などはとても役に立ち、自分たちが生きる世界を豊かにしていくでしょう。でもそれははじめからあった目的ではなく、あくまで結果として得られた有用性なのです。

「主体的で対話的で深い学び」を実現するためにはこうした「学習の楽しさ」を小学校の段階から、一人ひとりの発達に合わせ、どんどん体験してもらうことが大切だと思います。
「楽しさ」を経験し、学習への「内的な動機」を身に着けてしまえば、主体的な学習ができるようになり「役に立つ」という結果は自ずと後からついてくるのではないでしょうか。

「実用性」「有用性」ばかりにとらわれず、岡潔のように潔く「スミレはただスミレのように咲いているだけでいい」と言い切りたいものです。