「学校離れ」について
不登校の子どもたちが増加しています。
昨年発表された2021年度の不登校の児童生徒数は24万4940人で過去最高になりました。前年度から5万人弱の増加です。もちろんこれにはコロナの影響も大きいと思います。ただ、不登校の児童生徒数は実は9年間連続して増えているので、全てをコロナのせいにするわけにはいきません。もともとあった増加傾向に「コロナが拍車をかけた」というのが実態に近いのではないでしょうか。だとすればこの増加傾向の原因は一体何なのか? 今月はそのことを考えてみようと思います。
はじめにお断りしておきますが、これからお話する内容は明確なデータに基づくものではありません。不登校を経験した子どもたちやその親御さん、あるいは学校の先生方や専門家の方たちとお話する中で感じた印象を基にしたお話です。
その印象とは端的に言うと「学校離れ」です。
以前の不登校の子どもたちやその親御さんには「学校は行くべきところ」という認識が当たり前のものとしてあったと思います。「行かなければとは思うけど、どうしても体が動かず精神的に追い詰められていく」というのが不登校の子どもたちの典型的なパターンだったと思います。ところが近年、その「学校は行くべきところ」という前提が少しずつ崩れ始めており、「無理に学校に行く必要はない」と思う子どもたち、親たちが増えてきているのではないか。そしてそれが不登校の児童生徒数の増加の根底にあるのではという印象なのです。
ではなぜこの前提が崩れてきたのか?
いや、そもそも以前の子どもや親はなぜ「学校に行くべき」と思っていたのでしょうか?
たぶん人により様々な理由はあったと思います。たとえば知識の習得、人格形成、生きる力、友達、クラブ活動・・・本当に様々でしょう。でもやはり中でも大きなのは「就職できること」「将来食べていけること」といった将来の生活の安定の確保ではないでしょうか。
以前にもお話しましたが、これまでの学校制度は20世紀型の産業を担う人材を大量に生み出すためにはとても効率の良いシステムだったと思います。そして子どもたちもその制度のもとで頑張って勉強して卒業すれば、就職して安定して生活していくことがある程度は保証されてきました。だからこそ面倒な学校の規則を受け入れて、面白くもないことでも頑張って勉強し、試験を受け、単位をとって卒業することを目指すことが出来ていたのでしょう。
ところが21世紀に入ると産業の構造が変化し徐々に大量の人材は必要としなくなり、必要とされる能力も変化してきました。そしてそうした傾向は今後もIT, AIの発達によって拍車がかかっていくと思われます。さらに日本では「失われた30年」と言われる経済停滞もあり、頑張って勉強して卒業しても将来安定した生活が送れる保証はなくなってしまったのです。
こうなると選択肢は限られ、厳しい受験競争を勝ち抜き「より狭き門」の突破を目指すか、あきらめて不安定な将来を受け入れるかのどちらかにならざるを得ません。この結果、都市部のいわゆる「難関校」の倍率が上がる一方で、地方の普通の学校は軒並み定員割れという事態が起きているのです。そして「それでも高校卒業資格くらいは取っておきたい」と思う人にはわざわざ面倒な学校に通わなくても通信で取得するという選択肢も用意されているわけです。
このようにこれまで学校制度と日本の社会が提供してきた「将来の安定性」が崩れてきたことが「学校離れ」の背景にあるのだと思います。そしてこのことは日本の少子化の問題にもつながっているのではないでしょうか。
一方でまだまだ「学校は行くべきところ」と思われている方がお多いのも事実です。でも、単に知識を得るだけなら塾や専門学校のほうが効率的だし、学校の先生よりずっとわかりやすく解説してくれるユーチューバーも揃っています。今の学校のあり方が変わらなければ、子どもたちの学びの場は着実にこうした方向にシフトしていくと思います。
文科省もこうした傾向は重々承知していて様々な答申で今後の学校のあり方を指し示しています。
例えば「時代の変化に伴う学校と地域の在り方について」では日本社会の少子化の流れを受けて、教育を学校に任せきりにするのではなく、地域の人たちとの連携を深め地域社会の将来を担う人材を協力して育てていくことが重要であり、学校が地域のハブとしての役割を担っていくべきだとの方向性が示されています。これまで産業の担い手の育成がメインであったことを考えると、これなどは確かに正しいし、定員割れに苦しむ地方の学校にとっては特に重要な方向性のように感じられます。
また新学習指導要領では主体的で対話的で深い学びが提唱され、これまでのような一方通行的に知識を教え込むスタイルから脱却し、学校が「生きる力」を身につける場所になることも要請されています。
確かにこれからの世界に目を向けるとAIを始めとする科学技術の進化、気候変動、国際紛争・・本当に不確実な問題だらけです。そこでは自らの意思で主体的に動く力、論理的に考える力、他者と共感する力、様々な意見を調整する力・・など本当の意味での「生きる力」が欠かせません。そしてそうした力を身に着けていく場所になることこそがこれからの学校の役割であるという方向もまったく正しいと思います。
子どもたち、そして親たちが「生きる力をつけるためには学校に行かないとね」と感じてくれるようになれば「学校離れ」は自然になくなるでしょう。
昨年発表された2021年度の不登校の児童生徒数は24万4940人で過去最高になりました。前年度から5万人弱の増加です。もちろんこれにはコロナの影響も大きいと思います。ただ、不登校の児童生徒数は実は9年間連続して増えているので、全てをコロナのせいにするわけにはいきません。もともとあった増加傾向に「コロナが拍車をかけた」というのが実態に近いのではないでしょうか。だとすればこの増加傾向の原因は一体何なのか? 今月はそのことを考えてみようと思います。
はじめにお断りしておきますが、これからお話する内容は明確なデータに基づくものではありません。不登校を経験した子どもたちやその親御さん、あるいは学校の先生方や専門家の方たちとお話する中で感じた印象を基にしたお話です。
その印象とは端的に言うと「学校離れ」です。
以前の不登校の子どもたちやその親御さんには「学校は行くべきところ」という認識が当たり前のものとしてあったと思います。「行かなければとは思うけど、どうしても体が動かず精神的に追い詰められていく」というのが不登校の子どもたちの典型的なパターンだったと思います。ところが近年、その「学校は行くべきところ」という前提が少しずつ崩れ始めており、「無理に学校に行く必要はない」と思う子どもたち、親たちが増えてきているのではないか。そしてそれが不登校の児童生徒数の増加の根底にあるのではという印象なのです。
ではなぜこの前提が崩れてきたのか?
いや、そもそも以前の子どもや親はなぜ「学校に行くべき」と思っていたのでしょうか?
たぶん人により様々な理由はあったと思います。たとえば知識の習得、人格形成、生きる力、友達、クラブ活動・・・本当に様々でしょう。でもやはり中でも大きなのは「就職できること」「将来食べていけること」といった将来の生活の安定の確保ではないでしょうか。
以前にもお話しましたが、これまでの学校制度は20世紀型の産業を担う人材を大量に生み出すためにはとても効率の良いシステムだったと思います。そして子どもたちもその制度のもとで頑張って勉強して卒業すれば、就職して安定して生活していくことがある程度は保証されてきました。だからこそ面倒な学校の規則を受け入れて、面白くもないことでも頑張って勉強し、試験を受け、単位をとって卒業することを目指すことが出来ていたのでしょう。
ところが21世紀に入ると産業の構造が変化し徐々に大量の人材は必要としなくなり、必要とされる能力も変化してきました。そしてそうした傾向は今後もIT, AIの発達によって拍車がかかっていくと思われます。さらに日本では「失われた30年」と言われる経済停滞もあり、頑張って勉強して卒業しても将来安定した生活が送れる保証はなくなってしまったのです。
こうなると選択肢は限られ、厳しい受験競争を勝ち抜き「より狭き門」の突破を目指すか、あきらめて不安定な将来を受け入れるかのどちらかにならざるを得ません。この結果、都市部のいわゆる「難関校」の倍率が上がる一方で、地方の普通の学校は軒並み定員割れという事態が起きているのです。そして「それでも高校卒業資格くらいは取っておきたい」と思う人にはわざわざ面倒な学校に通わなくても通信で取得するという選択肢も用意されているわけです。
このようにこれまで学校制度と日本の社会が提供してきた「将来の安定性」が崩れてきたことが「学校離れ」の背景にあるのだと思います。そしてこのことは日本の少子化の問題にもつながっているのではないでしょうか。
一方でまだまだ「学校は行くべきところ」と思われている方がお多いのも事実です。でも、単に知識を得るだけなら塾や専門学校のほうが効率的だし、学校の先生よりずっとわかりやすく解説してくれるユーチューバーも揃っています。今の学校のあり方が変わらなければ、子どもたちの学びの場は着実にこうした方向にシフトしていくと思います。
文科省もこうした傾向は重々承知していて様々な答申で今後の学校のあり方を指し示しています。
例えば「時代の変化に伴う学校と地域の在り方について」では日本社会の少子化の流れを受けて、教育を学校に任せきりにするのではなく、地域の人たちとの連携を深め地域社会の将来を担う人材を協力して育てていくことが重要であり、学校が地域のハブとしての役割を担っていくべきだとの方向性が示されています。これまで産業の担い手の育成がメインであったことを考えると、これなどは確かに正しいし、定員割れに苦しむ地方の学校にとっては特に重要な方向性のように感じられます。
また新学習指導要領では主体的で対話的で深い学びが提唱され、これまでのような一方通行的に知識を教え込むスタイルから脱却し、学校が「生きる力」を身につける場所になることも要請されています。
確かにこれからの世界に目を向けるとAIを始めとする科学技術の進化、気候変動、国際紛争・・本当に不確実な問題だらけです。そこでは自らの意思で主体的に動く力、論理的に考える力、他者と共感する力、様々な意見を調整する力・・など本当の意味での「生きる力」が欠かせません。そしてそうした力を身に着けていく場所になることこそがこれからの学校の役割であるという方向もまったく正しいと思います。
子どもたち、そして親たちが「生きる力をつけるためには学校に行かないとね」と感じてくれるようになれば「学校離れ」は自然になくなるでしょう。
ただ大きな船がすぐには曲がれないように、明治以来作られてきた学校の在り方が変わっていくのにはそれなりの時間がかかります。その過程では10月の「雑感」で紹介させていただいた横浜創英高校の工藤校長が言われるように、上からの改革だけではなく現場の先生方が自分たちで出来ることから変えていくことが欠かせないでしょう。それぞれの現場で子どもたちの意思を尊重し、自分たちの力で問題を解決していけるようにサポートすること、そうした意識をもって子どもたちに接していくことが「はじめの一歩」になるという気がします。