「中動態の世界」を読んで
今、國分功一郎さんの著書「中動態の世界」を読んでいます。なかなか時間が取れず未だ読了していないので全編を通しての感想を述べることはできませんが、これまでに読んだ部分からだけでもいろいろと示唆されることがあり、またこれまでに自分が考えていたことを整理するきっかけにもなっているので、今月はこの本をめぐるお話をしてみます。

「中動態」という言葉はあまり聞かれたことがないと思います。
これは文法上の動詞の「態」のひとつなのだそうですが、自分もこの本のことを知るまではまったく聞いたことがありませんでした。
動詞の「態」といえば「〜する」という能動態と「〜される」という受動態の2種類があることはよく知られていると思います。ところが國分さんによるとこの2つの「態」とは別に以前は「中動態」という態が存在していたそうで、それが長い言語の歴史の中でしだいに姿を消していき、今では能動態と受動態だけが残っているのだそうです。

「中動態」という名前を聞くと能動態と受動態の中間的なものを想像してしまいそうですが、國分さんはそうではないと言われます。歴史的にはまず中動態と能動態の区別があり、中動態の一部が受動態として派生していく中で、本体の中動態が消滅したため能動態と受動態の区別だけが残ったという経緯のようです。そして現在の能動態と受動態は「する/される」ということで区別されますが、かつて中動態と能動態を分けていた区別はまったく別物だったようで「する/される」という分類で言えばどちらも「する」であったとのことです。
では中動態と能動態を分けていた区別とはなにか? 國分さんはそれを多数の文献の読み込みと丁寧な論証で見事に解明されていきます。その辺りはここで拙い説明するよりは本を読まれたほうが良いに決まっているのですが、話の流れで以下に最低限の説明をしておきます。

國分さんによると中動態と能動態を分けていた区別とは「主体がその過程の中にあるか外にあるか」ということで、主体がその過程の中にあるのが中動態、外にあるのが能動態だそうです。
例えば「与える」とか「曲げる」といった動詞の場合、その行為は主体の外で完結するので能動態になります。一方「欲する」とか「希望する」といった動詞の場合は「心のなかから欲望や希望が湧き上がる過程」の中に主体があるので中動態になるそうです。言い換えると中動態に属するのは主体の中で成し遂げられる何事かであり「生まれる」「成長する」「想像する」など重要なものが多く含まれていたようです。

かつて中動態と言われる態が存在した。そのことを理解した上で、ではそれを知ることは私達にとってどのような意味があるのでしょうか? 

多分、今の我々の思考は能動と受動の二分法という狭い枠組みに囚われがちです。これに対し中動態という観点を加えることで、我々の行為の在り方をより正確にとらえられるのではないか。実際、國分さんは中動態という観点から「意志」や「自由」の問題について深い考察をされています。
ただ、このあたりのことは正直まだまだ自分は消化しきれていません。それについてはもう少しじっくりと考えてみることにして、今回はそこに至る前の話、能動態と受動態の枠組みが私達の考え方に及ぼしている影響と、その限界について考えてみようと思います。

能動というと「主語にあたるものが意志をもって何かをコントロールする」という事態を想定しがちです。能動ではどうしても「意志」が全面に出てきてしまうのです。

例えば「私が歩く」という場合であれば「私という主体が『歩こう』という意志をいだき私の体に歩くことを命じる」といったイメージです。ただ本の中で國分さんが詳しく分析されているように「歩く」という行為も少し考えると単純なことではありません。歩くためには数多くの骨格、関節、筋肉を動かし、倒れないように体の位置や傾きをその都度フィードバックしながらバランスを取っていくというようなとても複雑な過程が進行しています。そしてこうしたすべてのことを「私の意思」でコントロールしているわけではありません。幼少の頃からの積み重ねで意識することなしに体が自然に動くようになってきているのです。
さらに最新の脳神経科学によると、ある行為をしようとする意思が意識に現れるのは脳の中でその行為を行うための運動プログラムが出来た後であることが判明しているそうです。ということは「意思によってある行為をしている」ということ自体も怪しくなってきます。
ですから「私が歩く」というのはむしろ「私というシステムが歩いている状態にある」と解釈したほうが実態に近いのかもしれません。

しかし、能動と受動の二分法にどっぷり使っている私達はついついあらゆる行為に意思を想定してしまいがちです。何かがなされればそこには意志があったから、何かがなされなければ意志がなかったからと考える思考法がしみついてしまっているのです。それはある意味仕方のないことなのかもしれませんが、物事を正しく認識する上での妨げになってしまうことがあります。

例えばこれは不登校のお子さんをお持ちの親御さんに時々見られるのですが、子どもが学校に行かず昼夜逆転してゲームばかりしていると、それを子どもが自分の意志で選択したものととらえてしまい「甘えるな」とか「安易な方向に流されるな」などと叱責してしまケースがあります。
ところが多くの場合、子どもはそれを自らの意志で選んだのではなく、心身の状態から学校に行くことができず、不安から夜間に眠れず、気持ちを紛らわすためにはゲームにのめり込むしかない状況にあるのです。
こんな時に子どもを叱責して無理やり動かそうとしてもほぼ逆効果しか生まれません。そもそも親の意志で子どもを動かせるという考えが自体が幻想に過ぎないのです。
不登校の子どもに接する一番の基本は「子どもの置かれた状況を理解すること」「その大変さをわかってあげること」です。その上でどうしたら子ども自身がその状況を変えていけるかを一緒にに考えていくことが重要になります。
なぜなら必要なのは外部の力によって子どもを変えようとするこ能動的な(子どもの側からすれば受動的な)関わりではなく、子どが自ら変わっていくという極めて中動態的な過程だからです。

こうしてみると中動態的な見方を必要とするケースはけっこうあるのではないでしょうか。
そして生野学園の建学の精神である自然出立などは極めて中動態的な言葉のように感じます。
そのあたりのことはもう少し整理して改めてお話ししてみようと思います。
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