「主体性」について考えてみる
何度かお話させていただいたことですが、生野学園中学校の創立に際し「この学校を子どもたちの主体性が育つ場所にする」という自分なりの目標を立てました。
このとき「主体的な子どもを育てる」とか「主体性を育てる」といった言葉ではなく「主体性が育つ場所」という表現を使ったのは、「主体性」というものは子どもたちにとっての「他者」である自分がコントロールして「育てる」ものではなく、あくまで子どもたち自身がこの学校で生活し、様々な体験をし、他者と関わる中で自分で身につけていくものだと感じていたからです。

ただそれでは「そもそも主体性とは一体何なのか?」と正面切って問われると明確な答えを持っていたわけではありません。
実は「『主体性』あるいは『主体」とは一体なんなのか?」という疑問は自分がかなり若い頃から抱いていたもので、たぶん最初に出会ったのは「感覚の主体」の問題だったように記憶しています。

中学校の理科で感覚器官を学習した際に「感覚器官で発生した電気的な信号が神経を伝わって脳に伝達されて・・・」といった説明をされたと思います。でもこれだけの説明では実際にどの器官が「感じている」のかよくわかりません。例えば指先に針が刺さったときに「痛い」と感じているのは感覚器官なのか伝達された先の脳の中の何処かなのか、科学的な説明では感じている主体の正体がはっきりしないのです。この疑問は今もずっと残ったままです。

次に高校の倫理の授業ではデカルトのコギトエルゴスム(我思う故に我あり)を学習しました。確実なものを求め、すべてを疑ってかかり「疑っている自分自身の存在」すら疑っても、さらにそれを疑っている自分がいて・・・という論理展開は新鮮で面白かったと記憶しています。しかし同時に何か釈然としないものも感じていました。それは、そもそも疑うという行為やその行為をなす主体を前提としてよいのか? あるいは「疑う」ということは何らかの「主体」によってなされる行為なのか? その辺りの前提を廃してしまえばコギトの論理基盤そのものが崩れるようにも思えたのです。
そして更に言うと「疑う」とか「考える」といった行為に対しては「能動的な意味での主体」は存在していないのではという思いに至りました。

少しわかりにくいと思うので具体例で説明します。
例えばいま自分がこの文章を書いているという事態を考えると、自分という主体が書こうとする文を予めすべて「考えて」書いているわけではありません。実際には頭にいろいろな言葉が浮かんでくるのを待って、それを拾い上げながらキーボードを叩いているのです。その時、自分はどんな言葉が浮かんでくるかをコントロール出来ているわけではありません。以前に取り上げたChatGPTが確率の高い言葉を出力するように、自分の脳内に形成されたニューロンのネットワークが「しっくりしそうな言葉」を出力してくるのを待っていると言ったらよいでしょうか。
いずれにせよ自分という主体が「能動的に」コントロールしているという実感はなく、その意味では「受動的」な行為に近いのかもしれません。

ただし浮かんできた言葉が自分にとって「しっくり来るか来ないか」はその都度意識して判断しているので完全に受動的な行為であるとはいえません。さらに、そもそもこうしたことはすべて自分の中で起こっている事態なので外部からなされるという意味での受動的な行為ではないのです。

そう考えるとこれはまさしく先月お話した「中動態的」な行為と言えるのではないでしょうか。

もう一つ例をあげます。
これは高校生の時から感じていたことですが、例えば数学の難しい問題にチャレンジしたとき、散々考えても分からなかったのに、何かの拍子にふと解法が思い浮かぶことがあります。これは「こういう順序で考えを進めていけば解法にたどり着く」という見通しのもとに「能動的に」解法にたどり着いたわけではなく、解法のほうが自分に思い浮かんだという印象です。
これなども「中動態」的な行為と言えるのではないでしょうか。

以上、端的にわかる例を上げましたが、実は日頃「能動的な主体」として行為していると思っていることも、厳密に考えると「中動態的」な行為であることが多いのではと思います。例えば「考える」ということでも「私が考える」というよりは「考えが私の中に浮かぶ」というほうが正確なように思われます。
ですから極端な言い方をすれば「能動的な主体」というもの自体が幻想にすぎないのではないでしょうか。デカルトのコギトに話を戻せば「思い」はあっても「我」は存在しないのかもしれないということです。
そもそも人間というものは生まれてから様々な経験をし、言語を習得し、他者と関わる中で形成されてきた極めて複雑なシステムなのですから、それを能動的にコントロールできる主体など存在し得ないのも当たり前のことなのかもしれません。

つまり日頃意識している「自分」という存在は実は「能動的な主体」などではなく「自分という複雑なシステム」であるということです。
ところがついつい「自分」を自分や他者をコントロールできる能動的な主体と錯覚してしまうので、思ったようにコントロールできないことにイライラしてしまうのだと思います。

さてこのように考えると「主体的である」とは一体どういうことになるでしょうか?
当然「能動的な主体になること」ではありません。それはそもそも不可能なのです。

では一体どういうことなのか。現時点で自分は明確な答えには至っていないのですが、なんとなく「自分というシステムが十全に、そして活発に機能していること」なのかなと思っています。
「自分というシステム」の中から「こんなことをしたい」「あんなことをしたい」という意欲が湧き出てきて、それに従って生きる中で楽しさや喜びを感じる状態、様々な考えやアイデアが思い浮かび自分自信が変化していく状態、何かの対象に関わるなかで我を忘れて没頭している状態、そんな状態が「自分というシステムが活発に機能している」イメージです。
逆に意欲が湧いてこず外部からコントロールされていたり、何かにとらわれて無理に自分自身をコントロールしようとしてバランスを失っているのが主体性を失っている状態なのだと思います。

「主体性」をそのようなものととらえた場合、それを獲得するにはどうすればよいのでしょうか? 
まず押さえておかなければならないことは、長い時間をかけて形成されてきた「自分というシステム」を変えていくためにはやはり長い時間が必要になるということです。そのうえで思い浮かぶのはやはりシステムが安定しているということです。システムが不安定で外部からの刺激に過度に反応するようでは十全に機能することは望めません。ですからまずは安定、心の状態としては「安心」を得ることが必要になると思います。
しかし、単に安定しているだけでは変化は望めません。安定した上で他のシステムと関わること、言葉を変えれば他者と関わることが必要になるはずです。
当たり前のことですが「安心できる居場所」で他者と関わり適度な刺激を受けることが「主体性が育つ」ための必要条件なのだと思います。

言葉で言えば簡単なことですが、それを実現することは容易いことではありません。
そのために生野学園では毎日、生徒、スタッフ、そして保護者のみなさんが努力されているのです。
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